No.063 ■コーダの通訳者の不遇?(2)
私が地方で講演をするときは必ず自分専用の通訳者を連れていく。「自分専用」と書くと誤解を招きそうだが、私の話を正確に通訳できる人でないと困るので、とにかく講演を受ける条件として通訳同行を認めてもらうようにしている。
というのも私には苦い経験があるから。私の手話での話を日本語にするときの通訳の声は聞こえない。だから、私の話がどんな日本語になっているのかはそのときは知らない。そして、私は知ったのだ、日本語への通訳がそれほどひどいものになっていることを。
ある講演先で、私の講演を文字化して報告集に載せたいという話があった時のこと。地元の通訳者が私の講演で通訳したときの声をレコーダーに記録してあるので、そのテープから文字化し、それを掲載したいのだという。
その話に一抹の不安を感じた私は、文字化したものを見せてもらうことにし、講演先を後にした。そして数週間後、文字化されたものが送られてきた。レポート用紙1枚目からあまりにもひどい日本語になっていて、講演のビデオを送ってもらい、こちらで改めて日本語に翻訳しなおしたことがある。
きれいな日本語になっていないのはまだいい方である。日本語が滅茶苦茶な上に私の言ったことが全く逆のことになっていたり、話の辻褄があわなかったり…。稚拙で文になっていなくて、そして間違いだらけの通訳者の声が会場にいた手話のあまりわからない聴者の耳に届いていたかと思うと憤懣モノである。以来、私は手話通訳者を連れて行くようにした。
そして、日本手話から日本語への通訳に対し神経質になった。ろう者の発言が通訳によって捻じ曲げられたりしたら困るからである。(ろう者の人格が通訳者によって貶められるのももっと我慢がならないが…)
そうした矢先、コーダの同時通訳の声を文字化したものを見せてもらった。同時通訳という条件の厳しい中、無駄がなく洗練された日本語になっているのに非常に驚いた記憶がある。
以下、Aは手話のメッセージを正確に理解しているものの、訳出されている日本語がくどい、あるいは不味い例。Bはコーダの通訳者が訳出した日本語例。
例1
(A)仲居さんが朝食を運んでいたら(廊下に)何も気付かず寝ている彼を見つけ、起こしました。彼は目がさめ、大変驚きました。
(B) 朝食の準備をしていた仲居さんに起こされ、(彼は)びっくりしました。
例1の手話文は、日本手話でよく使われる行動ロールシフトの入ったもので、Bのような「~されて」という言い方を選択することによって、手話文にある多くの情報が短い訳出文に凝縮されている。
例2
(A)「困ったね、どうしよう」と主人と相談して、主人と一緒に近所の店に行ってペンキを買うことにしました。
(B)それで主人とペンキを近所の店で買うことにしました。
日本手話では<移動>に関する動詞がポイントになっている。/会う/、/行く/、/引っ越す/、/歩く/…。また、/相談する/、/聞く/、/見る/、/(スイッチを)入れる/等も、日本手話では大事な役割を持つ動詞であるが、日本語に訳出する時、これらの動詞を入れると冗長な日本語の文章になってしまうのである。
例2の日本手話の文では、/相談する/や/行く/という語が出てくるが、コーダの通訳者が訳したBの訳文では、これらの語が出てこない。会話引用のロールシフトの部分「困ったね、どうしよう」も、「それで」と通訳することですっきりした日本語にしている。
しかし…地域で手話通訳の養成を担当しているろう者にオリジナルの手話文(ビデオ)と訳出文を見せたところ、この人は全然読み取れていないというのではないか。
この養成担当のろう者にいわせると、例1では、仲居さんが寝ている彼を見つけるところや何もわからずに寝ているという彼の描写ができていない、例2では、会話引用部分の「困ったね、どうしよう」「主人と相談して…」「行って」が抜けているからだという。
日本手話のそういった部分が、Bのような訳出文と等価な意味・メッセージを持つのだということをろう者に説明してもなかなか納得してもらえない。というのも、ろう者にとって日本語は外国語のようなもので、日本語のもつ言語的構造をよく理解していないためだと思う。
けれども、日本語を母語とする手話通訳者でさえ、コーダのBのような訳出文を「まとめすぎ」「手話を見落としている」「具体的な描写がない」と言っているのだ。
日本語から手話への訳出も、「言っていないことまで訳している」「自分勝手な通訳」…と言われる始末である。
このように、コーダに対する通訳の評価は…全体的に低い。
メルマガ62号で書いたように、手話通訳の世界では、日本語対応手話とか中間的手話(実は私にとってもその実態はよくわからないのだが…)というものが主流になっていて、コーダの通訳の能力が正当に評価されていない。(帰国子女の通訳者と同じ通訳上の問題を抱えているコーダもいるが、その問題が見えにくくなっているというのもまた問題だろう)
ところで、手話にまつわる神話…日本手話には接続詞がない、テニヲハがない、主語と目的語を区別する方法がない、助動詞がない、受身形がない、使役がない、時間軸に沿って表現していくしかない、細かいニュアンスを伝えられない…等など…。
私だって20代前半まで「手話ってできそこないの言葉だ」と思っていた。現在もなお、かつての私と同じ思いを抱いているコーダはたくさんいるだろう。
北欧では、(子どもの)コーダに関するろう親への教育がプログラム化されている。ろうの親に対しマイナスの見方を持たないコーダの子ども達は、自分の親が話している手話が好きになるし、ろうや手話、通訳関連の仕事に就こうとする意欲が高まるという。
おそらく日本手話の認知度が遅れているというのもあるだろうが、日本でもこうしたとりくみが急がれるべきだと思うのだが…現実は…なかなか遅々として進まない。これはまた、コーダの通訳について正当に評価できる日がしばらくの間、到来しそうにないということを意味しているのかもしれない。
(2005.10.3)
| 固定リンク
「ろう者の言語・文化・教育を考える(No.035~)」カテゴリの記事
- No.067 ■ろう者のカラオケ(2006.01.02)
- No.066 ■手話の/好き/(2005.12.26)
- No.065 ■誤解される?聴者の「好き」(2005.12.12)
- No.064 ■オイルと油(2005.11.21)
- No.063 ■コーダの通訳者の不遇?(2)(2005.10.10)






















コメント
京さんへ
今回例として出したものは、ろう者の1分半から2分程度の手話モノローグの同時通訳から一部から抜粋したものを紹介したものです。文脈がわからないというのは、一部を抜粋したためにその前後が削られているためだと思います。
起こされてビックリするのは、その前の部分で、彼の同級生がいたずらで、熟睡している彼を布団ごと廊下に運んだという話が入っています。
ところで、日本では、第二言語から第一言語への翻訳・もしくは通訳のスキルが十分できない状態のまま(つまり、コーダでない聴者にとって第二言語である手話から第一言語である日本語への翻訳・通訳トレーニングを十分に積まないまま)、第一言語から第二言語への通訳(翻訳トレーニングもあまり・・・)を始めさせるところが多いですから、翻訳論というレベルまでには行っていないというのが実情ですね・・・。う~ん。
投稿 木村晴美 | 2005/10/11 21:55
背景が白になって読みやすくなりました。緑だと読みづらい。ところで、例1,2のBの訳文はすっきりしているとは言うものの、その訳文だけみていると、文脈がわからないですね。例1で起こされてびっくりしたのはなぜか、とか。手話表現のほうでは入っているにしても。翻訳論として検討の要ありかも。
投稿 京 | 2005/10/11 08:54