2008年4月
No.090 ■手話こそ世界語に?
最近、ろう文化や手話への理解が広まりつつあり、マスコミにもしばしば取り上げられるようになってきた。反面、まだまだ無知な人たちも存在する。ろう者と接触することのない人たちの中には、国によって手話が違っていることに驚く人もいる。手話は聴者が作ったものだとか、世界共通だろうというような勝手な誤解もある。しかし、旧約聖書のバベルの塔の話のように、世の中に多様な言葉が存在するのは意味あることなのだ。
手話もしかり。ろう者のコミュニティにはそのコミュニティごとの手話が存在する。人がなかなか足を踏み入れることのできないようなアフリカの奥地に、もしろう者のコミュニティがあれば、必ずその地で使われる手話があるのだと思う。他所から人が入らないため、その存在が知られていないにすぎない。幸いにも日本では手話を目にする機会が多いので、その存在が知られるようになっただけだ。
16~17世紀頃の大航海時代には、フランス語やスペイン語が幅を利かせており、植民地の人たちも宗主国の言葉を覚えたり、実際、話せたほうが便利だと思っていたかもしれない。それが現代では英語になり、世界中で英語が共通語のように扱われている。もちろんその状況に異議を唱える人も多いし、英語ができることがすなわちエリートだと思うなどは、勘違いも甚だしい。それでも英語ができると便利であることは確かだ。そこで、英語に代わり「エスペラント語」を共通語にしようという動きもある。
手話も世界共通ではない。そのため世界各国のろう者が集まるときのために共通手話としてジェスチューノが作られ、ひと頃はその辞典まで出された。最近はあまり意味がないと活用されなくなった。最近の国際手話には大きく分けて欧米系とアジア系の二つのタイプがある。アジアのろう者間ではアジアなりのものが作られるし、欧米のろう者たちはやはりそれなりのものを使う。そのためアジアのろう者にとって欧米タイプは少しわかりにくい。人々が集まると各国の手話単語を取り入れピジン手話が生まれる。その場ではなんとか話が通じても、やはり自国の手話で話すときより情報量は格段に少ない。
ところが、聴者はろう者は他国の人とでも手話が通じると思っている。たしかに音声言語に比べれば、手話は通じやすいといえる。だからといって手話が世界共通になるわけではない。ピジンはあくまでもピジンであり、内容を理解しようとする努力が必要になるし、努力しても少ない情報に甘んじなければならない。国際手話通訳も同様だし、他国のろう者と話す経験のない人には、それすら理解できないだろう。自国の手話の通訳を見るようなわけにはいかない。手話が世界共通になることなどありえないのだ。
それなのに、「手話を世界語に」などととんちんかんなことを唱える人がいる。手話についての門外漢が言うならまだしも、あろうことか、全国手話通訳問題研究会が季刊で発行している『手話通訳問題研究』102号の『随想』のページに目を疑うようなことが載っていた。作家の早坂暁氏が、外国に行くと話が通じなくて難儀するので、世界共通の手話を覚えれば支障なく会話ができて便利だと書いている。さらに、手話は文法がなく覚えやすいとまで書かれている。時代錯誤も甚だしい。それに、早坂氏は数年前の全通研集会で記念講演までした有名な作家で、言葉の専門家である。また、一般の新聞等で十分な理解もなく掲載されたというのではない。仮にも手話についての理解を広めようとしている団体の機関誌ではないか。手話は文法がないとか、覚えやすいなどと明らかに間違った見解を、そのまま掲載し発行するなど許されることだろうか。一般紙も社会への影響力が大きいものの、おかしな記事には是正を求める意見を言えるが、手話やろう者を熟知していると思われる団体が発行したものについては意見の言いようがないではないか。
ろうあ運動に取り組んでいる人たちには、今の社会の変化に敏感になっていただきたいものだ。
(日本語訳:chu)
■このメルマガは、2008年4月8日にまぐまぐ!によって配信されたものです。
No.089 ■ろう文とコーダ
「ろう文」とは、ろう者が書いた文章のことである。これまで、ろう者は厳しい口話教育で発音の指導にばかり重きを置かれ、文章を書く力を十分に伸ばしてもらえなかった。そのため、文法的に間違った文を書く人が多い。口話教育の弊害とも言える。その一方でろう者が書いたものだから・・・と納得できる部分もある。私の両親などは、そもそも文を書くという段階で四苦八苦している。
ここで改めて「ろう文」とはどのようなものかを考えてみる。昔と違って最近は、インターネットやメールの普及で、聴者が「ろう文」を目にする機会も増えてきている。聴者が「ろう文」をどうとらえるかを考えておかなければならない。
先日、年下のろう者にある仕事を頼んだ。一応丁寧な文でメールを送った。その後、彼から返信が届いた。日程が合わないのでどうしたらよいかというものだったが、文面は「どうしますか?」と書かれていた。聴者が書いたものならば失格だが、これはろう者が書いたものである。きっと、「どういたしましょうか?」と言いたくて、手話をそのまま日本語に訳してみたのだと思う。同じろう者同士だから斟酌もするが、これが、ろう者となじみのない聴者の目に触れたときはどうなるだろう。「日本語も満足に使えないのか、非常識な」と片付けられるのが落ちだ。
しかし、それ以上に微妙なのがコーダの場合だ。コーダは一般的に聴者の仲間ととらえられているが、それゆえ、コーダの書く文に違和感を覚える聴者もいるらしい。例えば、あるコーダが書いた文。大変丁寧に、「誠に申し訳ございませんが・・・」で始まっている。内容は、「送り先を誤ってメールを送ってしまったので、それを削除してほしい」と謝罪しているものである。ところが文面には「削除しておいてください」と書かれていた。このメールが送られたのは、年齢もさまざまな関係者が目にする送り先だ。年下の者から「・・・しておいてください」とは何ごとだ!と先輩方の怒りに触れた。その後、書き手がコーダだったことが判明し「なあんだ・・・」ということになったのだが、果たして「なあんだ」で済ませてよいことだろうか。
ろう者は聴者と違っているのは明らかで、日本語を母語としない移民の子と同様に、マイノリティとしてバイリンガル教育など特別な教育措置が必要だと意識されている。そのため明晴学園の開校となったわけであるが、コーダは日本語を母語としないろう者を両親に持っているにも関わらず、自身が聞こえるというだけで放置されている。コーダは一見、手話も日本語も扱えるバイリンガルであるように見えるが、実は手話は堪能でも日本語はいま一つとか、反対に日本語はできても手話は拙いなど、言語環境はさまざまである。
コーダは移民の子と同じだ。移民の子どもは親の母語が居住国で使われている言語ではない。それでも子どもは言語を獲得するのが早いので、周りで使われている言葉(第二言語)を覚え自由に話せるようになる。ところが、高学年になるにしたがって勉強についていけなくなるという問題が起こることがある。生活言語は扱えても学習言語が育っていないためだ。そこで、カナダなど移民の多い国では、子どもたちが第一言語も第二言語も不十分なダブルリミテッド・バイリンガルに陥らないよう、教育支援が行われている。実は、コーダにも同じ支援が必要なのだ。言語環境が不十分なためにダブルリミテッド・バイリンガルのコーダが結構いるのではないかと思われる。
バイリンガル教育という観点でいえば、ろう児だけに目を向けるのでなく、移民の子と同じ状況にあるコーダにもしっかりした言語教育のプログラムが整備されるべきなのだ。今のままでは、コーダの言語力はいつまでも伸ばせない。コーダの会にももう少し動いてもらいたいが、私自身もコーダのために力になりたいと思う。
(日本語訳:Chu)
■このメルマガは、2008年3月31日にまぐまぐ!によって配信されたものです。
Info 言語研修生募集(アフリカ手話)
東京外国語大学のアジア・アフリカ言語文化研究所が2008年度言語研修生を募集しています。
今回は「仏語圏アフリカ手話」も含まれることに。
8月4日から9月5日の1ヶ月(100時間)の集中講義だそうです。費用は6万円。募集期間は5月1日~6月20日。
詳しくはこちらから。
No.088 ■日本語対応手話はL2としてOKか?
私は、現在バイリンガルろう教育の推進に関わっている。ご存知のとおり、この4月から日本で初めてバイリンガルろう教育を実践する「明晴学園」が開校する。手話を第一言語(L1)に、日本語の読み書きを第二言語(L2)とする。口話は希望があればオプションとして取り入れ、第一言語と第二言語が入れ替わることはない。
いかなるろう児も、特別な努力なしに自然に習得できる言語は手話なので、まず第一言語として日本手話の力をつけさせる。これは専門家の間でも共通認識となっている。
ところが、先日ろう者関連の機関紙である記事を目にした。書いたのは、中途失聴の人で教育の専門家ではない。それでもかなり影響力を持っている人物だ。文面には「ろう児には手話が大切である」と書かれている。たしかにそのとおりだ。そこでは「手話教育」という言葉が使われており、「手話教育においては一次的言葉と二次的言葉が大切である」という。一次的ことば、二次的ことばというのは、有名な心理学者である岡本夏木が説いたもので、一次的ことばの力が不十分だと、思考や論理的な話をするなどの二次的ことばも弱くなるという。
くだんの記事では、「ろう児の一次的ことばは手話であり、二次的ことばは日本語対応手話である」と書かれていた。二次的ことばが日本語対応手話であるとするならば、明晴学園が実践しようとしているバイリンガルろう教育の理念と整合しなくなってしまう。
バイリンガル教育は、第一言語(L1)にも第二言語(L2)にもそれぞれ生活言語とそれを土台にした学習言語があると考えている。明晴学園に限らず、北欧をはじめとして諸外国で実践されているバイリンガルろう教育では、その考えに基づいて、第一言(L1)の手話にも生活言語と学習言語があり、同様に第二言語にも、筆談や手紙などの日常的な読み書きから、論文のようなものを読み書く学習言語のそれぞれが存在するととらえている。
第一言語である手話をみると、乳幼児のころから周囲の大人とのやり取りの中で生活言語としての手話を習得し、次第に人の前で自分の意見を述べたり、討論の司会をするとか、自分が調べたものを発表するなどの学習言語としての手話へと高まっていく。生活言語は日頃のおしゃべりなどで使われるものだが、土台となるこの力がないと学習言語へと高めることができない。
つまり、バイリンガル教育では、基本や土台なしに学習言語だけを教えようとすることは意味がないと考えている。日常の生活の中で、さまざまな経験をし言葉のやり取りをする力を蓄えて、それを基に、レポート発表をしたり、意見を述べるという学習言語が育つ。バイリンガルろう教育においては、第二言語である書記日本語も、生活言語的な漫画や手紙などの私的な読み書きから、感想文やレポート、論文など学習言語的な読み書きへと成長するのだ。
ところが、前述の記事によれば、一次的ことば(生活言語)は手話で、二次的ことば(学習言語)は日本語対応手話で。つまり、日常のおしゃべりは手話でよいが、パブリック・スピーチは日本語対応手話にしろということではないか。日本語対応手話を読み取るには疲労が伴い、話もくどくどと長くなる。しかも、明晴学園に通おうとしているろう児たちは、すでに学習言語としての手話の力が十分に伸びている。にもかかわらず、なぜわざわざ日本語対応手話で学習活動をしなければなないのだろうか。日本語対応手話を使用している聴者に迎合するためか。学習言語としての手話を身につけた者たちは、人前で話をしたり、
行政交渉などの場面でも、日本手話できちんと話をすればよい。そして、手話通訳者がしかるべき日本語に通訳をすればよいことなのだ。現在の日本語対応手話の蔓延にろう者側が譲歩する必要などない。
さらに、ろう児にも日本語対応手話で教育をすべきと考えている教育関係者もいる。そもそも日本語対応手話の文法は日本語のものだ。これから教えられる未知のものである日本語をベースに手話を理解するなどありえない。つまり、日本語対応手話は何の役にも立たないのだ。
バイリンガルろう教育において、日本語対応手話は第二言語(L2)になりえない。実際には中途失聴の人と話す際に、相手に合わせて日本語対応手話を使うことはあるかもしれない。それでもろう者というアイデンティティに日本語対応手話は持ち込まなくていい。
(日本語訳:chu)
■このメルマガは、2008年3月24日にまぐまぐ!によって配信されたものです。
■新年度出演体制!
今日から新年度ですね!
新社会人、新職場…気持ちを新たにしてがんばりましょう!
ところが、新年度といっても、NHK(日本放送協会)では昨日からが新年度でした。
昨日の手話ニュース845をごらんになった方なら気づいたかと思いますが、バックがオレンジからブルーに変わりました。
また、出演体制も下記のように変更になりました!! 新人キャスターさんも新たに1人!コーダです。
※月曜日の戸田さんのパートナーは未定。来週の放送までに決定だそうです。
▲手話ニュース845(夜20:45~)
月曜日 ( )・戸田
火曜日 小野・高山
水曜日 深海・高島
木曜日 那須・田中
金曜日 飯泉・赤堀
土曜日 高山
▲手話ニュース(昼)
月曜日 金子
火曜日 金子
水曜日 深海
木曜日 中野
金曜日 田中
▲週間手話ニュース(土曜日)
赤堀・(高島/戸田/小野)
▲子ども手話ウィークリー(日曜日)
河合/津田






















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