No.089 ■ろう文とコーダ
「ろう文」とは、ろう者が書いた文章のことである。これまで、ろう者は厳しい口話教育で発音の指導にばかり重きを置かれ、文章を書く力を十分に伸ばしてもらえなかった。そのため、文法的に間違った文を書く人が多い。口話教育の弊害とも言える。その一方でろう者が書いたものだから・・・と納得できる部分もある。私の両親などは、そもそも文を書くという段階で四苦八苦している。
ここで改めて「ろう文」とはどのようなものかを考えてみる。昔と違って最近は、インターネットやメールの普及で、聴者が「ろう文」を目にする機会も増えてきている。聴者が「ろう文」をどうとらえるかを考えておかなければならない。
先日、年下のろう者にある仕事を頼んだ。一応丁寧な文でメールを送った。その後、彼から返信が届いた。日程が合わないのでどうしたらよいかというものだったが、文面は「どうしますか?」と書かれていた。聴者が書いたものならば失格だが、これはろう者が書いたものである。きっと、「どういたしましょうか?」と言いたくて、手話をそのまま日本語に訳してみたのだと思う。同じろう者同士だから斟酌もするが、これが、ろう者となじみのない聴者の目に触れたときはどうなるだろう。「日本語も満足に使えないのか、非常識な」と片付けられるのが落ちだ。
しかし、それ以上に微妙なのがコーダの場合だ。コーダは一般的に聴者の仲間ととらえられているが、それゆえ、コーダの書く文に違和感を覚える聴者もいるらしい。例えば、あるコーダが書いた文。大変丁寧に、「誠に申し訳ございませんが・・・」で始まっている。内容は、「送り先を誤ってメールを送ってしまったので、それを削除してほしい」と謝罪しているものである。ところが文面には「削除しておいてください」と書かれていた。このメールが送られたのは、年齢もさまざまな関係者が目にする送り先だ。年下の者から「・・・しておいてください」とは何ごとだ!と先輩方の怒りに触れた。その後、書き手がコーダだったことが判明し「なあんだ・・・」ということになったのだが、果たして「なあんだ」で済ませてよいことだろうか。
ろう者は聴者と違っているのは明らかで、日本語を母語としない移民の子と同様に、マイノリティとしてバイリンガル教育など特別な教育措置が必要だと意識されている。そのため明晴学園の開校となったわけであるが、コーダは日本語を母語としないろう者を両親に持っているにも関わらず、自身が聞こえるというだけで放置されている。コーダは一見、手話も日本語も扱えるバイリンガルであるように見えるが、実は手話は堪能でも日本語はいま一つとか、反対に日本語はできても手話は拙いなど、言語環境はさまざまである。
コーダは移民の子と同じだ。移民の子どもは親の母語が居住国で使われている言語ではない。それでも子どもは言語を獲得するのが早いので、周りで使われている言葉(第二言語)を覚え自由に話せるようになる。ところが、高学年になるにしたがって勉強についていけなくなるという問題が起こることがある。生活言語は扱えても学習言語が育っていないためだ。そこで、カナダなど移民の多い国では、子どもたちが第一言語も第二言語も不十分なダブルリミテッド・バイリンガルに陥らないよう、教育支援が行われている。実は、コーダにも同じ支援が必要なのだ。言語環境が不十分なためにダブルリミテッド・バイリンガルのコーダが結構いるのではないかと思われる。
バイリンガル教育という観点でいえば、ろう児だけに目を向けるのでなく、移民の子と同じ状況にあるコーダにもしっかりした言語教育のプログラムが整備されるべきなのだ。今のままでは、コーダの言語力はいつまでも伸ばせない。コーダの会にももう少し動いてもらいたいが、私自身もコーダのために力になりたいと思う。
(日本語訳:Chu)
■このメルマガは、2008年3月31日にまぐまぐ!によって配信されたものです。
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コメント
CODAです。
明らかにそのとおりだと思います。
経験からして、日本手話か日本語どちらかに自信を持たせるように育てないと、KODAはつらい思いをするでしょう。
私の場合は特に、高校など進学問題で担任の先生とひざを突き合わせて話すとき、言いたいことが40パーセントも話せなくて、非常に苦しかったです。
当時の私は日本手話で育ったからか、抽象論、自分の信念にかかわること、核心に触れることなどをその当時適切な「日本語」に置き換えることができませんでした。
「手話」ならなんとか・・・。
ですから、成人してからですが、ヨーロッパに留学して、外国手話を学びながら色々な言語に触れ、自己を確立していきました。
CODAは非常にニュートラルな存在です。
環境によっていかようにもなる可能性と危険性を持ち合わせています。
と同時にCODAであると自我覚醒し、自己を意識すればするほど何ともいえない孤立感を覚える。
でもろうに囲まれると不思議と安心する。
特別な配慮が必要であると思います。
投稿 ebisugao | 2008/04/20 10:40
全くその通りです。
普通の聴者のメールを理解出来なかったり、逆に自分のメール文が聴者に伝わらない事が多々あります
『てにをは』が抜けていたり、使い方が違うと時々言われます。
私はコーダの会に今は関わっていませんが、コーダの会に関わってる友人いわく
『そこまでコーダに不便を感じない』
言われました。
難しいですね。。。
投稿 イキ☆ | 2008/04/15 19:07