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No.088 ■日本語対応手話はL2としてOKか?

 私は、現在バイリンガルろう教育の推進に関わっている。ご存知のとおり、この4月から日本で初めてバイリンガルろう教育を実践する「明晴学園」が開校する。手話を第一言語(L1)に、日本語の読み書きを第二言語(L2)とする。口話は希望があればオプションとして取り入れ、第一言語と第二言語が入れ替わることはない。

 いかなるろう児も、特別な努力なしに自然に習得できる言語は手話なので、まず第一言語として日本手話の力をつけさせる。これは専門家の間でも共通認識となっている。

 ところが、先日ろう者関連の機関紙である記事を目にした。書いたのは、中途失聴の人で教育の専門家ではない。それでもかなり影響力を持っている人物だ。文面には「ろう児には手話が大切である」と書かれている。たしかにそのとおりだ。そこでは「手話教育」という言葉が使われており、「手話教育においては一次的言葉と二次的言葉が大切である」という。一次的ことば、二次的ことばというのは、有名な心理学者である岡本夏木が説いたもので、一次的ことばの力が不十分だと、思考や論理的な話をするなどの二次的ことばも弱くなるという。

 くだんの記事では、「ろう児の一次的ことばは手話であり、二次的ことばは日本語対応手話である」と書かれていた。二次的ことばが日本語対応手話であるとするならば、明晴学園が実践しようとしているバイリンガルろう教育の理念と整合しなくなってしまう。

 バイリンガル教育は、第一言語(L1)にも第二言語(L2)にもそれぞれ生活言語とそれを土台にした学習言語があると考えている。明晴学園に限らず、北欧をはじめとして諸外国で実践されているバイリンガルろう教育では、その考えに基づいて、第一言(L1)の手話にも生活言語と学習言語があり、同様に第二言語にも、筆談や手紙などの日常的な読み書きから、論文のようなものを読み書く学習言語のそれぞれが存在するととらえている。

 第一言語である手話をみると、乳幼児のころから周囲の大人とのやり取りの中で生活言語としての手話を習得し、次第に人の前で自分の意見を述べたり、討論の司会をするとか、自分が調べたものを発表するなどの学習言語としての手話へと高まっていく。生活言語は日頃のおしゃべりなどで使われるものだが、土台となるこの力がないと学習言語へと高めることができない。

 つまり、バイリンガル教育では、基本や土台なしに学習言語だけを教えようとすることは意味がないと考えている。日常の生活の中で、さまざまな経験をし言葉のやり取りをする力を蓄えて、それを基に、レポート発表をしたり、意見を述べるという学習言語が育つ。バイリンガルろう教育においては、第二言語である書記日本語も、生活言語的な漫画や手紙などの私的な読み書きから、感想文やレポート、論文など学習言語的な読み書きへと成長するのだ。

 ところが、前述の記事によれば、一次的ことば(生活言語)は手話で、二次的ことば(学習言語)は日本語対応手話で。つまり、日常のおしゃべりは手話でよいが、パブリック・スピーチは日本語対応手話にしろということではないか。日本語対応手話を読み取るには疲労が伴い、話もくどくどと長くなる。しかも、明晴学園に通おうとしているろう児たちは、すでに学習言語としての手話の力が十分に伸びている。にもかかわらず、なぜわざわざ日本語対応手話で学習活動をしなければなないのだろうか。日本語対応手話を使用している聴者に迎合するためか。学習言語としての手話を身につけた者たちは、人前で話をしたり、
行政交渉などの場面でも、日本手話できちんと話をすればよい。そして、手話通訳者がしかるべき日本語に通訳をすればよいことなのだ。現在の日本語対応手話の蔓延にろう者側が譲歩する必要などない。

 さらに、ろう児にも日本語対応手話で教育をすべきと考えている教育関係者もいる。そもそも日本語対応手話の文法は日本語のものだ。これから教えられる未知のものである日本語をベースに手話を理解するなどありえない。つまり、日本語対応手話は何の役にも立たないのだ。

 バイリンガルろう教育において、日本語対応手話は第二言語(L2)になりえない。実際には中途失聴の人と話す際に、相手に合わせて日本語対応手話を使うことはあるかもしれない。それでもろう者というアイデンティティに日本語対応手話は持ち込まなくていい。

(日本語訳:chu)

■このメルマガは、2008年3月24日にまぐまぐ!によって配信されたものです。

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ろう者の言語・文化・教育を考える(No.084~)」カテゴリの記事

コメント

 JSLになじみの薄い聴者からの感じ方ですが、シムコム(日本語対応手話)はとても便利でした。なにせ、頭の中は音声語で、それをビジュアルに置き換えて手話ればいいのですから。なので、シムコムを完全否定されると、ほんの少し抵抗感を感じます。

 ただ、「生まれつきの聾者たちにとっての最善はJSLで、シムコムは使い物にならない」という見解は、尊重されてしかるべきとも思えます。シムコムが理解しにくいのは確かでしょうから。

 いっそのこと、シムコムはL3(第三言語)と見なせば丸く収まるのではないでしょうか。負担が重くなるのは重々承知ですが、聾児たちの多くはそれをクリアできるだろうと信じています。

 いつだったか、ベルギー(またはベネルクス諸国)の文部大臣が「最近のベルギー人はなっとらん。3ヶ国語しか話せないんだから…」と嘆いていたのを思い出します(つまり4つ5つは当たり前という意味なのでしょう)。言語的マイノリティはそれなりの苦労が待ち受けていることを、あらかじめ予測し、覚悟を決めて臨むべきだ、と敢えて言わせてもらいます。でもそれは、不当なことを強いられていると感じるよりも、多言語を使わざるを得ないという“チャンス”とみなせば、あながち悪いことばかりとも言えません。世界的に見て“孤立語”とも言える日本語圏に住んでいる限り、一ヶ国語しか操れないで一生を終わる大半の日本人からすれば、3つの言葉を使いこなす聾者は、ある意味「超人」にも見えるのです。

 これは、聴者のタワゴトなのでしょうか。

投稿 きゃぶ | 2008/04/10 12:38

上記の記事の筆者(中途失聴の方)が、どのような意図で『一次的言葉・二次的言葉』という用語を引用したのかわかりかねますね…

私自身も中途失聴ですが、恐らく生まれてから耳が聞こえないという体験は、中途失聴者を含む聴者達には理解できない現象です。

そのような人々は、生まれつき耳が聞こえないことが、言語習得メカニズムにどのような影響を与えうるのかという部分まで考えが及ばないのでしょうね。

とにかく第二言語にせよ二次的言葉にせよ、日本語対応手話は受け入れ難いですね…

投稿 Mckee | 2008/04/08 23:43

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