カテゴリー「ろう者の言語・文化・教育を考える(No.001~)」の97件の記事

2008/07/19

No.100 ■視線をあわせる

 あるコーダ(CODA)の談である。小学校に入学したときに、先生から「皆さん、あいさつするときや人とお話しするときには目をあわせましょうね」と言われたという。小学1年生の彼女は、何をいまさらあたりまえのことをわざわざ話しているのかと不思議に思ったらしい。彼女は小さいときから、ろうの両親と話をするのにいつも視線をあわせて話していた。聴者と話すときも例外ではなかった。そのため小学校の先生に改めて注意されて違和感があったのだ。しかし、その後聴者の社会を見ているうちに、たしかに視線をあわせる人が少ないことに気づいたのだという。

 まさしくコーダだ。耳は聞こえているが、振る舞いはろう者そのものではないか。コーダ自身、少し自分のことを知らなければならない。

 そのようなやり取りをした後、ある新聞記事が目に入った。教育現場ではもっと目を見てコミュニケーションしましょうと書かれている。最近はインターネットやメール、携帯電話ばかりが使われ、対面で視線をあわせて話をすることが少なくなっており、それが殺伐とした事件の多発につながっているのではないかということらしい。

 先のコーダの話の中の先生が注意していた30~40年前から、状況は変わっていないということだ。依然として日本人は人と視線を合わせることが難しいらしい。そのためか、聴者は自分の顔に無頓着だ。ろう者は自分が周りを見ているから、逆に自分も見られているという自覚がある。しかし聴者は、他者を見る習慣がないために、自身がどのように見られているかと配慮することがない。そして不用意に不満の表情などをあからさまにする。ろう者の方が見られることを意識して、自分の表情はコントロールしているものだ。聴者も1対1のときは、もちろん注意しているだろうが、人にまぎれてしまうような大勢の中では、そこまで気がまわらないらしい。

聴者の皆さん、まず視線をあわせることに慣れて、そしてコミュニケーションの力も伸ばしていただきたい。

(日本語訳:chu)

■このメルマガは、2008年6月23日にまぐまぐ!によって配信されたものです。

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2008/07/11

No.099 ■インターホンで…2

 今回は、インターホンの話の続編である。

 昔、山口の実家にはインターホンとしてパトライト(屋内信号灯)が付いていた。パトライトは、いつもいることの多い台所に付けられていた。実家では、理髪店・美容院をしていたので、店にお客様が来たことを知るための装置も必要だった。そこで、インターホンが押されるとパトライトが点灯するしくみを応用して、お店のドアの開閉にあわせてパトライトが点灯するようにした。

 田舎のことだから、町場のようにいつも店で待機しているわけではない。普段は奥にいて来客があると店に出て行く。お客様の方でも心得ていたのに、店のドアを開けるなり奥から父が出て行くようになったので、しばらくは訝しがっていたようだ。なぜ来客がわかるのか、そ知らぬふりをしながらも店内を見回すお客様もいて、陰からのぞいているとおもしろかった。

 いま、両親が引っ越してきた千葉の家では、インターホンが押されるとフラッシュライトが点滅し、モニターに映像が出て、来客が誰なのかわかるようになっている。まだ移って3~4年でしかないのに、どうもろう者の家だと知られているようだと母が言う。郵便や宅配便の配達人も慣れている人に限らず身振りを使い、誰もインターホンに向かって話す人はいないらしい。

 先日、連休で千葉に帰っていたときのこと。家人が出払っていて私一人が留守番をしているときに、フラッシュライトが点滅し始めた。モニターには宅配便のお兄さんが映っている。インターホンを押して、キョロキョロしながら人が出てくるのを待っている。まさしく昔、山口の店にやってきたお客様と同じ行動だ。家の中にいるのはろう者のはずなのに、インターホンがわかるのはなぜだろう?どこぞにカメラでもついているのか?とあちこち見回している。そして、こちらが出ていったとたん何ごともなかったかのような笑顔になるのだ。

 我が家にだけある特別な装置で、聴者のお客様を不思議からせるおもしろさの一方で、不便なこともある。店周りを掃除するときなど、ドアを開けっ放しにしていると、いつまでもパトライトが回り続ける。そのため掃除のときはパトライトを切っておく。便利な装置ではあるが完璧ではないのだった。

(日本語訳:chu)

■このメルマガは、2008年6月13日にまぐまぐ!によって配信されたものです。

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2008/06/30

No.098 ■インターホンで・・・

 以前、「戸の開閉」についてのとらえ方がろう者と聴者では異なっていると書いた覚えがある。

 ろう者は、戸が開いている状態は入室可、戸が閉まっている状態は入室不可ととらえる。一方、聴者は戸が開いていようが閉まっていようが、まずノックして中からの反応を待つ。ろう者は扉の向こう側の様子を音でとらえることができないので、戸が閉まっていると困ってしまう。

 室内にいるのが聴者だけと思われる場合は、まずノックして誰か出てきてくれないかしばらく待つ。もう1回ノックしても出てきてくれないときは、恐る恐る戸を開けてみる。ノックの音で誰かが出てきてくれると助かるのだが、とにかく扉が閉まっている部屋に入るには難儀するのだ。そのため、ろう者は「入室可」のサインとして戸を開けておく。にもかかわらず、入り口でノックする聴者がいる。室内にいるのはろう者だけだ。誰がノックの音を聞くというのだろう。

 似たような例で「インターホン」がある。昭和20~30年代、まだインターホンは一般的ではなく、客が自分で戸を開けて来訪を告げたものだ。田舎にいけば施錠もされていないので、戸を開けて中に入り込んだりもした。しかし、昭和40~50年代になると玄関扉は施錠されインターホンが取り付けられた。そして、ろう者の家庭ではインターホンの代わりにパトライト(屋内信号灯)が付けられた。

 このインターホンの扱い方もろう者と聴者では違っている。どうもろう者はインターホンのボタンを押す時間が長いらしい。指摘されて改めて聴者の様子を見てみると、たしかに聴者の指がボタンを押す時間は短い。そんなに短くて良いのかといいたくなるくらいの長さでしかないが、1回押せば室内では一定時間チャイムが鳴るのだそうだ。ということは、ろう者のように長々とボタンを押すとうるさいということだろうか。

 ろう者のインターホンであるパトライトは、ボタンを押す時間と点灯する時間がシンクロしているので、ちょっとしか押さなければ、パトライトの点灯も短くなる。聴者はちょっとでもインターホンのチャイムが耳に届けばよいのだろうが、ろう者はパトライトから離れていると点灯に気づかないこともある。そのため、ろう者はインターホンを長めに押すようになり、その感覚で聴者家庭のインターホンも長めに押してしまうのだ。

 千葉の実家ではインターホンにテレビが付いており、インターホンが押されるとテレビの画面が点き、同時にその上にあるフラッシュライトが点滅するようになっている。聴者はやはり押す時間が短い。そのためフラッシュライトが点滅したのかどうかわからないことも多い。テレビ画面で確認できるからまだいいが、画面がなければ、いちいち玄関まで見にいかなければならない。我が家に慣れている宅配業者は、家人が出で行くまでおとなしく待っているが、初めて来たような聴者はインターホンに向かって何やら話しかけているからおかしい。いずれにしてもフラッシュライトの点滅の長さで、来客がろう者か聴者か判断できる。

 聴者の皆さんも、チャイムが長々と鳴ったときはろうの来客だと思っていただきたいが無理だろうか。以前、マンションの階下のお宅への荷物が間違って我が家に配達され、それを届けに行ったときのこと。インターホンを何度押しても誰も出てきてくれない。もしかしたら「どちらさまですか?」とインターホン越しに聞かれていたのかもしれないが、それに応答しないので不審に思われたのだろうか? しかたなくメモをつけて荷物を扉の前に置いてきた。

インターホンの扱い方一つとっても、ろう者と聴者はやり方が異なっている。

(日本語訳:chu)

■このメルマガは、2008年6月9日にまぐまぐ!によって配信されたものです。

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2008/06/23

No.097 ■通訳中に音声付の日本語対応手話?

 先日、ある初老のろう者の体験談をお聞きした。手話通訳者と共に病院に行ったときのこと。あいにく日本語対応手話しかできない通訳者だったらしいが、問診の通訳をした後、視聴診のため席を外した。すると、医師が「あの通訳で通じているか」と聞いてきた。「日本語対応手話なので完全にはわからない」と答えると、「私が話していることと通訳者が通訳中に声にしていることは違っている」と医師が言った。なんと、日本語を話す医師の隣で、音声付で通訳をしていたというのだ。音声が重なり、さらに自分勝手な解釈がみられることから、医師は通訳者を外させ直接筆談でやりとりすることにしたらしい。手話通訳とは、話し手が話していることを手話にだけ直しているものとばかり思っていたが、音声付で通訳することもあるのかと唖然としたという。しかし一方で、あろうことか、そのお陰で通訳者の誤訳に気づくことができたと喜んでもいる。

 音声日本語を聞いて音声付で通訳をするなんて通常は考えられない。ただ、一部のろう者は、電話通訳で、自分の発言を先方に伝える際に、確認のため日本語を話しながら手話をしろと指示することがあるらしい。その場合は手話と手話が重なることになる。同様に、医師が確認のために内容を声にしながらの聞き取り通訳を要求することもあり、医療場面では音声付で通訳するよう指導しているところもあると聞く。ということは、医師は手話通訳者を信用していないということだ。そして、その要求に安易に従うということは、通訳者自身が自らの知識不足や技術の未熟さを認めたことになりはしないか。電話通訳にしてもしかり。もし、そんなに通訳者の技術を信用できないのならば、はなから自分で筆談でもすればいいではないか。

 また、同じ言語が重なることで混乱するではないか。先日、新聞社のインタビューを受ける機会があった。記者が連れてきた手話通訳者は聞き取りのときも読み取りのときも、終始音声と手話が同時進行だった。今、記者の話を通訳しているのか、私が話したことを通訳しているのかさっぱりわからない。さらに、話し始めるタイミングもつかめなくなる。電話通訳ではさらに混乱するのではないだろうか。

 そもそも、日本語対応手話で伝わるのだろうか。本人がそれを希望しているならともかく、私のように日本手話の通訳を求めているにもかかわらず、一貫して日本語対応手話で通されるとお手上げだ。それなのに、なぜ音声まで付けなければならないのか。このような通訳のやり方について、いま一度考えなければならないのではないだろうか。

(日本語訳:chu)

■このメルマガは、2008年6月2日にまぐまぐ!によって配信されたものです。

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2008/06/09

No.096 ■さわれるようになっても

 何度もお話ししてきたように、ろう者は肩を叩いて人を呼ぶ。聴者は人を呼ぶのに声を掛ける。それぞれの文化だ。聴者がなかなか人にさわれないというのは前にお話したとおりだ。それでも次第に肩を叩いてろう者を呼ぶことができるようになってくる。なんとかさわれるようになっても、その後の道のりは厳しい。今度は叩き方が問題になるのだ。

 よくあるのが「幽霊タイプ」。背後から音も立てずに忍び寄って、そっと肩に触れるものだ。気味が悪いったらありゃしない。気配もさせずに登場して、肩にそっと手を乗せる。これで肝を冷やさないわけがない。絶対止めてほしいやり方だ。

 次に「乱暴タイプ」。人が仕事をしているときに、加減もせず力任せに叩くものだ。「バカヤロー!」と言いたいところをぐっとこらえて、「元気なのはわかるけど、もう少し加減して」と注意する。

 そして、「失礼タイプ」。人差し指でツンツンとつつくもの。いかにも「さわりたくないんだけど、しょーがないから・・・」と言わんばかりのつつき方だ。叩いているのかつついているのかは見なくてもわかる。モノやいたずらの対象と見られているようで我慢ならない。「失礼タイプ」は少数派ではあるが、それでもゼロではない。

 また、「タイミングミスタイプ」というのもある。人の気配を感じて視線を上げ、相手の存在に気づいているのに、それでも肩を叩くやつ。よっぽど鈍いと思われているのか、そっちがばかなのかわからない。このタイプは意外に多い。

そして、最後に本当によくあるタイプ「微妙だけどやっぱり違うタイプ」である。「乱暴」にならず、「幽霊」にもならないよう気をつけてのことだとは思うが、叩き方が微妙に違う。ろう者のように軽くトントンとできず、なんとなく押さえつける感じのもので、どうもしっくりこない。しかし、極端でないせいか、これを修正するのは大変難しい。

ろう者は誰でも違和感ないさわり方で人を呼ぶ。しかし、聴者はこれができない。ろう者の皆さんは、人を呼ぶときのさわり方(叩き方)を細かく、聴者に教えていただきたい。指摘しなければ聴者のさわり下手はいつまでも改善されない。これをご覧の聴者の皆さんは、さわり方の奥の深さを理解し、上手にろう者を呼べるようになるまでしっかり訓練していただきたい。

(日本語訳:chu)


■このメルマガは、2008年5月27日にまぐまぐ!によって配信されたものです。

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2008/06/05

No.095 ■どうしてさわれないの?

 聴者は人に触れない。たしかにそうだ。

 私が手話を指導するようになって早20年になろうとしている。いつも通訳者を同席させず一人で、手話で手話を教えてきた。受講生は長年聞こえる世界で生きてきた人たちで、そのやり方のまま手話を学ぼうとしている。するといくつかの違和感が生まれる。一つは、講師を見ないことだ。ろう者は教室に講師が入ってくるとそちらを注視する。しかし、聴者の受講生はなかなか講師を見てくれない。なんとも不思議であるが、やはりろう者は「目の人」、聴者は「耳の人」だと思わせられる。

 講座を始めたいのになかなか全員が注目してくれないときには、先にこちらを見ている受講生に隣の席の人に注意を促すよう指示する。ところが指示された受講生は、隣の人に触れない。戸惑いながら肩をトントンとすると、今度はトントンされた方が過剰に反応する。本当に聴者は人に触るのが苦手らしい。このような場面はどの教室でも見られる。

 しかし、一方で解せないこともある。東京の通勤ラッシュは半端でない。電車の中で赤の他人と密着しながら移動しなければならない。冬は厚手の上着を着ているからまだしも、夏は素肌が直接触れ合うことになる。それでも我慢できるのはなぜだろう。知らない人だからだろうか。面識のある人とくっついているのはとても耐えられないのだという。このような現象は、欧米の人たちにはとても理解できないらしい。

 ろう者は、日頃から人を呼ぶのに肩や腕を叩く。老若男女関係なく共通のやり方だ。それでも、決して乱暴に叩くことはなく、さらに、年上の人を呼ぶときや、同輩同士を呼ぶときなど、やり方はそれぞれ細かく分類されている。

 はじめは人に触れなかった聴者も、度重なる指導のおかげでようやく肩をトントンとできるようになっていく。一方、私の職場の教官室での出来事。学生がやってくる。用があるなら、"肩トントン"とすればいいのに、手招きしてみたり、視界に入ろうと移動してみたり、的外れなことを続ける。かと思えば、机をトントンと叩く者もいる。手を伸ばせば届くところに立っているのに、なぜ肩ではなく机を叩くのだろうか。手を伸ばす労力を惜しむとか、こいつには触れたくないとか、相手を見下した態度だと解釈され怒りを買う。離れたところの人を呼ぶために机を叩くことはあるが、近くにいるにもかかわらず机を叩くことは失礼だ。それでも相手が学生だからと怒りを抑えて、肩を叩いて呼ぶように指導すると「え~、だってぇ~、できないも~ん」とくる。

 手話を学ぶということは、ろう者の文化、ろう者のやり方を学ぶということだ。2年かけて繰り返し指導するのに、さっぱり身についていない。学院を卒業していって久しぶりに会ったときに、やはり視界に入ろうとうろうろする卒業生もいる。相変わらず"肩トントン"はできないという。本当に聴者は人に触れない。どうすればいいのだろうか。どなたか妙案をお持ちなら教えてほしい。

(日本語訳:chu)

■このメルマガは、2008年5月19日にまぐまぐ!によって配信されたものです。

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2008/05/26

No,094 ■自立するのが早いのはワケがある?

 一口に「ろう児」といっても、親が聴者かろう者かによって違いがある。いずれバイリンガルろう教育が充実すれば、その違いはなくなるのかもしれないが、少なくとも口話で教育されている現段階では、聞こえる親を持つろう児はたいていおとなしい。それに比べて、ろうの親を持つろう児たちは、行動が機敏であると同時にいたずらっ子も多い。

 この違いはどこからくるのだろうか。デフファミリーの子どもたちは、早くから家庭内で手話のやり取りを見ているので、情報量が豊富だ。一方、聴者の家庭では周囲の会話はろう児に届かないという違いがある。しかし、原因はこれだけではないようだ。

 聴者家庭では聴覚が優先し、ろうの親は情報を目でとらえていく。ここに起因するのではないだろうか。親がろう者だと、子どもがろう児でも聴児(CODA)でも似たような行動をとる。そう感じるのは私だけではなく、複数の人がそう言っている。

 私自身も思い当たることがある。転んだりどこかにぶつかったりすると子どもは泣く。ところが、どんなに泣いてもろうの親は駆けつけてはくれない。実は、私がまだ小さかった頃、トイレに落ちたことがある。中に溜まっているものが少なかったのは不幸中の幸いだったが、落ちた瞬間にまず考えたのは「親(ろう者)はどこにいるんだっけ?」ということだった。次に「あ、おばあちゃん(聴者)がいたはず。騒げば来てくれる」と思いついてから、大声で叫んだ。声が聴者の耳に届くことを承知した上での行動だったと思う。ろうの親を持つ子は無駄には泣かないのだ。一方、聴者の親は何か物音がすれば飛んでくる。子どもは自分から発信するまでもない。ろうの親を持つ子どもたちは、転んだりぶつけたりしても、まず親を探しにいく。親の目の前で泣きながら出来事を伝える。これはろうの親をもつ子どもたちに共通の行動だ。

 ろう者は「目の人」である。いくら大きな音を出しても意味がない。それを子どもながらに承知している。聞こえる親を持つ子どもは、泣いていれば親がやってくるので、状況判断や自分で行動を起こす必要がない。そういうところから、ろうの親を持つ子どもたちは自立が早くなるのではないだろうか。泣いているだけでは誰も手を差し伸べてくれない。自ら考え行動を起こさなければならない。その結果、いたずらっ子になったり、利発になっていく。いずれにしても、自立が早いのはろうの親のおかげなのかもしれない。

(日本語訳:chu)

■このメルマガは、2008年5月12日にまぐまぐ!によって配信されたものです。

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2008/05/19

No.093 ■「/注意する/と/助言する/」

 私の職場である手話通訳学科で「卒業研究発表会」があり、終了後1年生を集めて反省会のようなものをした。卒業研究の発表は2年生が行い、1年生は裏方で受付や弁当手配などを担当する。その反省会での発言だ。卒業研究発表会では、休憩時間にセルフサービスの飲み物を提供する。お湯を入れたポットを2台と紙コップを用意しておいた。すると、先輩に「注意された」のだという。どんな失敗をやらかしたのだろうと聞いていたら、「ポットが2台あるのだから、紙コップも二手に分けてそれぞれのポットの近くに置いておいてはどうか」と言われたらしい。学生は「"注意"される前に、気を利かせて紙コップを分けておけば良かったものを・・・」と反省していたが、それは「注意」ではなく、「助言」だったのではないだろうか。状況を聞いてみると「怒られた=注意された」ではなく「助言された」と言うべきものだと思うのだ。手話の「注意」は大失敗をおかしたときに、二度と同じ失敗をしないようにと厳しく言うことであって、上記のようなことは「助言」であり、その返答は「助言いただき、ありがとう」となるべきものだ。この学生は、怒られたと思い「すみません」と謝ったかもしれない。

 日本語にも「注意」という語彙があり、手話にも<注意>という語彙があるので、それぞれを結びつけて覚え、安易に使うのだと思うが、実は、日本語の「注意」と手話の<注意>は意味や使用場面が微妙に異なる。日本語の「注意」のつもりで手話で<注意>とすると齟齬が生じる。このようになんだか釈然としないままにしているろう者も多いのではないだろうか。

 似たような例で「相談」という言葉もある。時節柄、学生と進路のことなど話すことが多い。「相談したい」というので話を聞いてみると、どこにも「相談」は出てこず、結局「報告」だったということがよくある。もう既に決まっていることや決意したことを先生に伝えておきたいということらしいが、その時間を確保するために「報告があります」ではなく「相談があります」と言うのだ。「相談」と言われたから、何がしか助言をし、共に考えてやろうと心積もりしているのに、話の中でどこにも私が助言すべき箇所は見つからない。いったいどういうことだと思っていたが、どうやら、日本語では「相談したい」という前置きと、「報告あります」という前置きでは印象が違うらしい。学生から先生に向かって、日本語で「ご報告があります」と言ってしまうと、なんと生意気なと思われてしまう。そこで、内容は報告事項であっても、相手に失礼にならないよう「ご相談が・・・」と切り出すようだ。「ご報告があります」と切り出せるのは結婚が決まったときぐらいだろうか。しかし、手話で<相談したい>と言われたから、それなりに学生を迎えた当方としては、心積もりした分だけ損した気分になる。ろう者は、本当に助言がほしいとか、考えを聞きたいというときにだけ<相談したい>と言い、報告するだけのときにはきちんと<報告する>と言うものなのだ。

 たしかに、日本語にも手話にも「注意」<注意>、「相談」<相談>はある。しかし、それぞれの使用範囲が完全一致してはいないことを踏まえていただきたい。さもないと、いつまでもろう者と聴者の隠れた齟齬はなくならない。


(日本語訳:chu)

■このメルマガは、2008年5月5日にまぐまぐ!によって配信されたものです。

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2008/05/12

No.092 ■とんでも新しい手話

 

時折、けったいな手話にお目にかかることがある。<家・家>として「いえいえ」。<北・北>で「来た来た」。<注射・場>で「駐車場」。同様の使い方で、<ト+掻く><セ+掻く>で「とにかく」「せっかく」、または<ヤ>を倍にして「やばい」などのように、音声言語をもじった手話を創りだしては喜んでいる輩がいる。それを見た手話学習者が、これまた喜んで多用する。それを見たろう者は、叱りつけるわけにもいかず苦々しく思っているのだが、手話学習者はその思いに気づくこともなく、けったいな手話を使い続けるのだ。聴者が楽しいのならと黙認してくれる優しいろう者もいるかもしれないが、大方はそんなことで喜んでいるような聴者とはお近づきになりたくないと思っている。そして、大概の聴者は、そんなろう者の思いに一向に気がついていないのだ。

 以前「聴力障害者の皆さんへ」といっていたNHKの「ろうを生きる、難聴を生きる」という番組がある。そこで、あるベテランの手話通訳者が、魚や花の名前の手話を創ってはどうかと提案した。一例として披露されたのは、<サ+魚>で「サンマ」、<タ+魚>で「タイ」、<カ+魚>で「カツオ」、<イ+魚>の「イワシ」。もともと「タイ」や「サンマ」はそれぞれ手話があるし、「カツオ」は<("カツオ"の口型(※)付き)魚>やCL+<魚>など、ろう者なりの表現がある。東京など都市部に暮らす人たちは、厳密に魚の種類を表す必要がないので、代表的な魚以外のは口型付<魚>で事足りる。一方、奄美大島などで漁業をなりわいとしているろう者は、イカにしても種類ごとにたくさんの手話を持っている。つまり、生活上こまごまと分類しなければならないものは、それぞれにあたる手話ができ、そこまでの必要性がない人たちの間には、該当する手話が定着しないというだけのことだ。

 音声言語は書き残すことができ、表記したものは普及しやすい。しかし、手話は対面で使用される言葉なので、奄美大島だけで使われている手話が東京に伝播することはない。見る言葉であることから、広まり方に制限がある言葉だとも言える。それでも、<サ+魚>や<イ+魚>という手話を聴者が勝手に作り出すことは納得がいかない。

 花の種類の手話にしてもしかりだ。<チ+花>で「チューリップ」、<サ+花>で「サクラ」。最近は、日本手話やろう文化が理解されつつあるので、前述のようなヘンな発案をする聴者は少なくなってきたかと思っていたら、そうは問屋が卸さなかった。高等教育機関で聴覚障害学生と共に活動している人たちである。それなりに手話を使い、熱心に活動しているのは良いが、手話は語彙数が少なく、キャベツもレタスも同じ表現で区別がつかないからと、<キ+野菜>で「キャベツ」、<レ+野菜>の「レタス」などを考案した。ろう者は別に困っていない。<キャベツ>と<レタス>の使い分けはできている。

 さらに、くだんの学生たちは麺類の区別手話まで創ってくれた。<ウ+麺>「うどん」、<ラ+麺>「ラーメン」、<ソ+麺>「そば」である。「アホ」のひと言をどこに飲み込めばよいのだろう。ろう者たちは、ちゃんと「うどん」も「ラーメン」も「そば」も使い分けているではないか。ここで口型がものを言うが、この口型は別に日本語を話しているわけではない。ろう者も日本語を使う人たちの中で暮らしているので、その人たちが話している口の形を見て手話に取り入れているだけだ。わざわざ「そば」の<ソ>や「うどん」の<ウ>を思い起こして指文字にする方が面倒くさい。仮に口型をつかうのが不得手なろう者でも、「うどん」だったら<日本・麺>とか、「ラーメン」だったら<中華・麺>で足りる。このように、ろう者にはろう者なりの言葉の創り方がある。にもかかわらず、日本語を基にした発想でけったいな手話を創り、ろう者にもその使用を強いるのは、ろう者を見下しているに他ならない。と、思われていることをお忘れなく。

※日本語から借用した口型を「マウジング」という。

(日本語訳:chu)


■このメルマガは、2008年5月1日にまぐまぐ!によって配信されたものです。

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2008/05/05

No.091 ■新しい手話について

 私は、手話指導や手話通訳者養成のかたわら、NHK手話ニュースのキャスターをしている。手話ニュースのキャスターになって、もう10年近くになる。手話ニュースではあらかじめ用意された原稿を手話に翻訳している。自らが考えたものを話すわけではない。時折、書かれている言葉をどのように手話にするか難儀することもある。一応、キャスター同士で申し合わせている用語もあるが、必ずしもそれを使わなければならないというわけではない。日本語の語彙と手話の語彙の意味が完全一致するわけではないからだ。ニュース原稿に書かれていることの意味を的確に伝えられる手話語彙を選択してお伝えしている。

 全日本ろうあ連盟では、新しい手話や標準手話の普及に取り組んでいる。新しく創られた手話でも、ろう者に受け入れられるものもある。例えば、「四季」という手話だ。昔は、春・夏・秋・冬の手話はあったものの、その総称である「四季」という手話はなかったので、新たにこの手話が創られたときには、瞬く間にろう者の間に広まった。また「エイズ」という手話も同様である。

 一方、せっかく創られた新しい手話でも、定着しなかったものもある。「真実」と「心」を組み合わせたと思われる「真心」という手話などだ。どうも、全日本ろうあ連盟が新しい手話を創るときには、複数の手話単語で表していたものの動きを簡略化して、少ない動きで表せるものにしようとの意図があるらしい。

 新しい言葉が定着するかどうかは日本語でも同様だ。国語審議会などが、外来語等のカタカナ語をわざわざ日本語に訳したのに、結局受け入れられず、カタカナ語のまま使われていることもある。新しい言葉を創るのはかまわないが、それが定着するかどうかはその言葉によるのだ。

 私は、手話ニュースにおいても、新しい手話を率先して取り入れようとしてはいない。なぜなら、新しい手話を使っても、それが視聴者に理解されなければ意味がないからだ。手話ニュースは、全日本ろうあ連盟の会員であるなしに関わらず、全国津々浦々のろう者に見ていただいている公共性の高いものである。そのため、まだ定着もしていない新しい手話を積極的に導入するわけにはいかない。NHK手話ニュースはあくまでもニュースの内容をきちんと伝えることが優先なのだ。CS放送の「目で聴くテレビ」では積極的に新しい手話を発信している。CS障害者放送統一機構は、ろうあ連盟の関係機関であるので、そちらで積極的にやっていただきたい。

 ところが、新しい手話が紹介されるたびに唖然とすることも多い。手話言語学の専門家ならおわかりだと思うが、手話の動きにはあるルールがある。両手を同時に使う手話の場合、左右同じ手の形で、同じ動きをするのが基本だ。左右の手の形が異なっている場合は、非利き手が固定され、利き手だけが動く。異なる形の手を左右同時に動かすのは難しい。ところが新しい手話は、このルールを無視して創られているように思える。新しい手話を考える際には、是非、文法や音韻を熟知している人に関わっていただきたいものだ。

 日本語の分野では、明治維新のころ西洋から新しい語彙がたくさん入ってきた。その中には「社会」のように、それまでの日本には概念の存在しない語彙もあった。「社会」は意外に新しい語彙で、明治以前の日本では「世の中」の「世(世間)」という語が使われていた。日本語の「世(世間)」と西洋の「社会」のように概念の微妙に異なる言葉を、慶應義塾大学の創始者である福沢諭吉は大変な苦労をして翻訳した。そのときに新しく創られ、定着した日本語も多い。新しい手話も同様に、使い手に受け入れられれば定着していくと思う。ただ、新しい手話の創造や普及のしかたには、もう少し検討が必要ではないかと思う。


(日本語訳:chu)

■このメルマガは、2008年4月14日にまぐまぐ!によって配信されたものです。

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