カテゴリー「ろう者の言語・文化・教育を考える(No.001~)」の33件の記事

2005/01/31

No.034 ■慣用句/目が安い/

慣用句というのは、2つの語から構成され、句全体の意味がもともとの語の意味とは異なる使われ方をする。日本語では「足を洗う」「骨を折る」「油を売る」などがある。

例えば、「田植えの後、足を洗う」なら、文面通りに足を洗っている意味だが、「ヤクザ稼業から足を洗う」なら「ヤクザをやめて堅気になる」という意味になる。

同じく日本語の「目が高い」は、鑑識眼がすぐれている、目が利くという意味で使われ、「さすが、お目が高い」等という。

日本手話には/目が高い/と/目が安い/という慣用句がある。

用法例を挙げておいた。

・隣に座っている女性が妊婦だったことに気づかなかった私は/目が安い/。

・嘘をついていることに気づいた友人は/目が高い/。/目が安い/私は友人の嘘を最後まで見抜けなかった。

・地図を片手にウロウロ、まさか目の前が私の探していた場所とは、ほんとに/目が安くて/情けない。

・落としたコンタクトレンズを探して1時間。友人は1分もしないうちに床に落ちていたレンズを拾い上げた。/目が高い/友人に感謝。

上の用法例でおわかりかと思うが、日本手話の/目が高い/は、よく気づく、観察力がある、目ざとい、敏感等といった意味に使われ、/目が安い/は、鈍感、注意力が足りない等という意味に使われている。

このように、日本手話には、日本語の「目が高い」とは全く違う使われ方をしている/目が高い/と日本語にない慣用句/目が安い/が存在する。

手話通訳者や手話を教えている聴者がこの用法を全く知らないでいるのはまだいい方だ。

「ろう者は日本語の知識が不足しているために元の用法を間違えて使い、それが定着してしまっている」と手話指導者(聴者)は言い、「ろう者が間違えた用法で手話をした時は、通訳時には丁寧な日本語に直してあげないといけない」という手話通訳者が残念ながらいる。

/目が安い/という手話をするろう者がいますが、「目が安い」という言い方はないということを教えてあげてくださいという具合に。

日本語を引用する時に日本語の元の意味を間違えることはあるかもしれないが、日本手話の/目が高い/のような慣用句は、それ自体が日本語のそれとは異なっているだけに過ぎない。

さて、ここで英語の文例。
It rains cats and dogs.
えっ、猫(cat)と犬(dog)の雨が降る(rain)?

でも、日本人は、英語が間違っているとは思わない。
(正解は「ひどい土砂降りだ」という意味)

けれども、日本語と似ている手話の慣用句(あるいは慣用的表現)や見慣れない手話については、自分のほうが知らない(あるいは間違っている)とは思わずに、手話が間違っていると決めつけられてしまう。

手話は言語であると言われながらもいまだに不当な扱いを受けているのだ。

(2004.12.27)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005/01/28

No.033 ■語彙/構わない/

手話の入門講座で必ず紹介される手話単語/構わない/。

どこの会社のコマーシャルだったか忘れたが、「コレで会社を辞めました」というフレーズと一緒に使われたサイン。日本社会では「女」を意味するサインであるが、そのサインの手型を使う。この手型を便宜上、手型イとしておく。

手型イの小指をあごにあてる動作を2回反復させるこの/構わない/という語、実はろう文化・聴文化の摩擦、軋轢の原因を生み出す魔性の言葉なのである。

一般的な手話講座では手話単語に日本語の単語を当てはめて教えている。日本手話と日本語の語彙体系は全く違うというのに、安易に日本語に対応させて教えている。

/構わない/という語もそうで、一応、日本語の「かまいません」「結構です」「いいです」という意味で使いますよ、と教えている。

日本語の「結構です」は英語のNo,thank youの感じに似ている。「結構な~」だったら、excellentあるいはnice、「結構な味」だったらdeliciousになる。同じ「結構」でも使われ方が全然違う。

「結構な味だ」ということを言いたい時に、/構わない/は使えない。/味+ベスト/、/旨い/、/美味しい/、/味+OK/等を用いる。

そして難しいのが日本語の「いいです」。この使われ方が日本手話と日本語とで全く違う。

いくつか会話例を挙げてみよう。

忙しそうにしているBさんにAさんが手伝おうとして手話で話しかける場面
A「手伝いましょうか」
B「あ、いいですよ」

日本手話では『じゃ、よろしくお願いします』という意味で使われているのだ。手話学習者がこの「いいですよ」を日本語の「いいです」に置き換えて、その発話を受け止めていたら、「何よ!この人、手伝ってあげようと思っているのに」とムッとしてしまうだろう。あるいは、もう結構ですという意味に間違えてしまうかもしれない。

手伝ってもらわなくても大丈夫だということを日本手話で言いたい時は、否定語(丁寧さを含む否定)を用いた後、/必要ない/という語を用いる。あるいは、同じ否定語を用いた後、大丈夫という意味で/構わない/を使う。

家に遊びにおいでと誘う場面
A「今度の日曜日、私の家に来ない?」
B「はい、いいです」

これはどうだろう?ちょっとなんだかオカシイ。

誘われている立場にある人が「行っても構わない(いいです)」というのはオカシイ。だから、日本語では「いいの?」とか「ほんと?ありがとう」と言ったりする。ところが手話では/構わない/を用いるのだ。これには「ええ、喜んで」という意味が含まれている。

ところが、ろう者のこの/構わない/の使い方を手話通訳や手話学習中の聴者がよく知らないために、「非常識な」「尊大な」「生意気な」「礼節のない」ろう者だと往々にして思われることがある。

手話の/構わない/と日本語の「構わない」「いいです」「結構です」は、使われ方が全く異なる。

ろう者も聴者もお互いに手話で/構わない/を連発しているが、その語の裏に隠された本当の使われ方を知らないと、例えば、一例ではあるが、聴者はろう者にありもしない責任の所在を追及され気持ちが悪くなるし、ろう者は聴者の「確認しない」「煮え切らない」「報告しない」態度にイラつくということになる。

手話を勉強することは日本語の単語に置き換えるだけのことだと思っていると文化摩擦という大きな落とし穴に落ちることになる。落とし穴に落ちないためには日本手話と日本語は全く別の語彙体系を有するということの意味を十分に吟味し、ひとつひとつの語の運用方法をよく理解することからだと思う。

それだけに手話を教えるというのは責任重大な仕事でもあるのだ。

(2004.12.13)

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2005/01/21

No.032 ■ろう者は漢字が大好き

ろう者はカタカナが大嫌いである。外来語をすぐにカタカナにするのでなく和製語にしろ!とカタカナの氾濫に怒るろう者が結構たくさんいる。意外に思われるかもしれないがろう者は漢字が好きである。

誤解しないで欲しい。平均的な日本人より難解な漢字を知っているろう者が多い、ということを言っているのではない。

私の父は日本語があまりできない。父は昭和8年(1933年)生まれ。学童期は太平洋戦争の真っ最中。聾学校の集団疎開、畑や山にかりだされ、授業はまともに受けていない。手話は生活言語として習得した。日本語の読み書きは聾学校時代にでなく、住み込みをしていてときに手話のできるすぐ下の妹(聴者)から必要最低限のことを教えてもらったという。

父はスポーツ新聞を読む。父は活字を拾い読みしつつ文を読む。複雑な構文の時は飛ばし読みをしているようだ。(私が不得手とする英語の文を読んでいるときの感じに似ているかも。あるいは手話学習中の聴者が目にもとまらぬ手話をみているような感じと言っていいかも・・・)

日本語を習い始めたばかりの外国人は漢字を覚えるのが大変だと言う。ろう者は外国人とはちょっと条件が違う。日本のろう者はこの世に生を受けた時から目に入ってくるのは日本語の文字である。

ひらがなだけの文は、すぐには読めず、何が書かれているのかわからず、ろう者は困ってしまうだろう。

ひらがなのみの文
「きんきゅうじたいですのですみやかにきたくしてください」

漢字混じりの文
「緊急事態ですので速やかに帰宅してください」。

「すみやかに」という語を知らなくても、漢字で書かれてあれば「速やかに」の「速」から「急ぐこと」と察しをつけることができる。

要するに「何か重要な事が突然起きたから早く帰れ」という意味なのだなと表意文字の漢字の特性からろう者は察することができる。

聾学校で漢字の書き取りの練習をさせられたおかげで漢字をある程度知っているろう者は、漢字が表音でなく表意文字であるため、新しい語に出会っても意味を汲み取ることができる。一方、読みを知らないでいたり、間違っているということがある。

NHK手話ニュースでは字幕に出る漢字全てにルビがふってある。ろう者が読めるようにするためという配慮かららしい。だが、肝心のろう者はルビをあまり見ない。見るのはもっぱら外国人らしく手話ニュースのおかげで日本語が勉強できると喜ばれているようである。

ろう者全員がルビを見ていないというわけでもない。あるろう者は字幕の漢字にふられているルビをみて初めて正しい読み方を知ったと感謝していた。ルビの効用性は大きい。

しかしながら、NHKの日本語の読みに便宜を図ろうとした当初のもくろみ(?)は成功しているとはいえない・・・。ろう者の日本語力は一様ではないが、全体的な傾向として漢字混じりの文のほうが読みやすいのだ。

手話のできない聴者と筆談する時、たまにだが、ひらがなオンリーの文で書いてくる聴者がいる。「漢字わかりますか?」と確認する聴者も時々だがいる。意味のわからない熟語(漢字)を指さし(身振りで)これは?とたずねると、こちらの意図に反してご丁寧に読み方を書いてくる聴者もいる。

文字(日本語)が社会生活を営む上で重要であるということをろう者は体験的に知っている。

絵本、教科書、新聞、雑誌、漫画、看板、回覧板、標識、切符発券機、地図、黒板、テレビ・・・。至るところで文字をみかける。だから読み書きのリテラシーの必要性を実感しているのは他ならぬろう者自身である。

ろう者にとって日本語は外国語と同じようなものである。だが、ずっと外国語でありつづけるとろう者の社会生活に支障をきたすのもまた事実である。

日本人(聴者)はひとつの言語だけで事足りるが、ろう者は手話のほかに支配言語(≒その社会で中心となっている言語)である日本語をも身につけなければならないという宿命を背負っている。

ろう教育関係者も日本語習得に熱情を注いでいる。しかし彼らは日本語をまず第一に考える。手話はあくまでもおまけ程度。彼らにとってろう者は日本語ができていなければならないという考えにたっているのだ。口話法主義では手話を排除した。今日では手話がろう教育の場で使われ始めるようになっている。しかし動機はやはり究極的には日本語の習得なのだ。乱暴にいうのならば、日本語ができるなら口話でも手話でも方法は何でもいいといっているように聞こえるのだ。

ろう児にはバイリンガルろう教育が必要だと私は考えている。そしてあくまでも第一言語は日本手話で、日本語は第二言語である。そして第二言語は、第一言語と同レベルの運用能力を厳格に求めなくてもよいという考えである。バイリンガル教育において両言語ともパーフェクトをめざすのは現実的ではない。パーフェクトであるべきなのは第一言語だけだ。つまり、ろう者にとってパーフェクトに操れるのは日本手話ということになり、そういう前提のもとに日本語の読み書き能力を身につけさせるプログラムをまず開発するべきなのだ。

現在の日本のろう教育は「日本語を、特に音声日本語をパーフェクトに身につけさせるために」が何よりも優先的に検討され、それが当然のこととなっているような気がし、私はその現実を憂えている。

(2004.12.6)

| | コメント (1) | トラックバック (1)

2005/01/19

No.031 ■時間の正確さ

それぞれの文化の違いと例のひとつとして「ビジネスにおける時間の正確さ」というのがある。

国ごとのビジネスにおける時間の正確さというのをちょっと書いてみよう。いずれも「世界比較文化辞典」からの引用である。この辞典で紹介されている国は60カ国だが、メルマガでは日本を含め8カ国のビジネスにおける時間の正確さについて紹介しよう。

ブラジル:ブラジル人にとって時間に遅れるのは日常茶飯事である。

中国:時間には正確。遅刻やキャンセルは非常に無礼なことと見なされる。

インド:インド人は時間厳守を尊重するが、ともすれば実行が伴わない。会議のスケジュールを決める時は、土壇場の変更にも対応できる余裕をもっておこう。

イタリア:時間には厳守のこと。特に工業地域のある北イタリアでは、アメリカ並みの正確さと能率が求められる。

エジプト:時間を守ることは伝統的に美徳とは考えられていない。クライアントがアポイントに遅れてくることもあるだろうし、姿を見せないことさえある。海外からのビジネスマンも含めて、頼み事をする側が待たされるのはアラブの世界ではあたりまえ。

ロシア:ロシア人にとって1、2時間の遅れは日常茶飯事だ。旧政権下では時間の正確さは重要ではなかった。雇用は保障され、遅刻を理由に解雇されることもなかったからである。現在でもロシア人は、時間の正確さより忍耐を美徳と考える。

アメリカ:時間厳守はきわめて重要。万一遅れそうな時は、必ず電話連絡する。

日本:状況を問わず、時間は正確に。

「世界比較文化辞典」は1999年発行のものだし、上記説明を丸ごと鵜呑みにするわけにはいかないが、やはり、時間の正確さというのは、国ごとによって微妙に異なるようだ。

さて、ろう者の場合、どうだろう。手話教師をビジネスの一種として考えることにしよう。

自分自身については講座の5分前までには会場に着いているようにしている。
初めての場所の場合は15分位前までにと心がけている。

私の知っている手話を教えることを生業としているろう者は意外に思われるだろうが、時間に正確である。

一方で時間にルーズなろう者が残念なことだが少なからずいる。

「時間にルーズなのはろう文化なのだ」と平気で受講生に話し、開始時間に数分遅れるのはあたりまえのこと、半時間遅れても平気でいた。さらにこの人は講座をドタキャンすることも平気でする。

時間に遅れるのはろう文化なのだと主張する人は「ご都合文化主義」。もちろん、「時間に正確な」ろう者からひんしゅくを買う。

ところが手話学習者はご都合文化主義を見抜けず、ろうの先生の毎回の遅刻をやむなく容認してしまっているという。

このろう者が講師をしている手話講座の運営機関の担当者は毎回ドキドキハラハラの連続だったそうである。ドタキャンに対応できるよう代わりの先生を待機させてあったというお笑いにならない話もある・・・。

メルマガの最後に。手話学習者の皆さんへ。ろう者のビジネスの世界では時間に正確・・・が基本なのです。決して「ろう文化=時間にルーズ」ではありません。そうです、ご都合「ろう文化」主義がまかり通ることはあってなりません。

(2004.11.21)

※後日談:2004年秋~冬の3ヶ月、イタリアはローマに滞在されたK先生の話では、電車の遅れが20分というのはアタリマエ、バス待ちも50分だったそう。実体験をしないとわからないこともあるみたいです。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005/01/10

No.030 ■読み取れない上に馬鹿笑い?

あるろう者の大会に参加していた時のこと。ご高齢のろうの男性が会場入り口に固まっている聴者の要員(おばちゃま)に「自動販売機はどこにありますか」とたずねた。

手話文は至ってシンプルで、しかし、低姿勢で丁寧に/自動販売機/どこ?/とたずねた。たったの2単語である。場所をたずねる文としては非常に簡潔で、疑問の基本文でもある。

ところが、場所をたずねられたおばちゃま要員数人は額を寄せ合って「何ていったの?」「お金って言ったの?」「(その手話を)見たことがないわねえ」等と声(つまり日本語)で相談しているのだ。

ろうの男性は自分の手話が相手にわかっていないとは思っていない様子で、おばちゃま要員の答えを待っている。

男性の「待ち」の態度に観念したのか、おばちゃま要員の一人が前に出てきて「何?」と聞いてきた。ろうの男性は改めてゆっくりとたずねた。「自動販売機はどこにありますか?」

しかし、かわいそうなことに、おばちゃま要員はその手話文を読みとれないのである。

おばちゃま要員達は「OK?」「お金?」「お金を落とした?」等と見当違いなことをてんでに言い始めたため、男性はようやく自分の手話が通じないと気づいた。

しかし、年を召された方だけにあって悟りの空間に入ってしまったのだろうか。ご立腹もせずに、穏やかにこう言い換えた。

「お金を入れて、ボタンを押す。缶が出てくる。その箱、どこ?」

驚いたことに、おばちゃま要員はその身振りに近い手話文でも「え、え、なによ、わからな~い」というのではないか。

私だったらこの時点で手話のわかる人を別に探すかも知れないが、男性はあきらめずに「飲む、ボタンで押す、どこ?」と言いなおした。

ようやく自動販売機のことだとわかったらしいおばちゃま要員は、「え、何、何、ジュースの?」と言いながら笑い出すのではないか。

そして「ボタン押して、ジュース、出る、箱ね、向こうにあるわよ」と笑いながら、自動販売機のあるほうを指さすのだ。

男性はにこやかにお礼を述べ、自動販売機のほうに向かっていった。そのうしろでおばちゃま要員は「お金のことではなかったわね」とずっと馬鹿笑いしている。

本当にあった話である。

なぜ、おばちゃま要員は/自動販売機/の手話を読みとれなかったのだろうか?

手話講習会で教える「自動販売機」は、/自動+販売+機械/かもしれない。3語からなる複合語なのだが、この手話、ろう者の間では使われていない。その使われていないものを手話講習会で教えるのもヘンだが・・・。

では、ろう者の間でごく普通に使われている「自動販売機」はたったの一語である。

手話講座の運営もしているコーダのT山さんは「笑い事じゃないわよ。私の経験からしても、この自動販売機の手話、手話通訳者や手話学習者の殆どは知らないと思うわよ。」という。

日常生活で頻繁に使われているこの手話単語を手話学習者や手話通訳者は知らない。これって小さな問題としてすませておくことができるのだろうか?

手話の本に載っているろう者の間で使われていない単語が教えられる一方で、ろう者の間ではごくポピュラーな手話単語が読みとれないのに、身振り的なものを示され、その身振りのおかしさに笑う手話学習者たち。

読みとれなくて「苦笑い」ならまだわかる。自分が読みとれていないのに気づかず、代替手段としてろう者から示された身振り的なものが手話のひとつだと思い込んで「おもしろいわね~」と馬鹿笑いする人たち・・・。

今夜もハーブティー「ライムブロッサム」の力を借りて寝ることにしよう・・・。そう、ライムブロッサムは心を落ちつかせてくれる効能があるらしい。

(2004.11.15)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/01/08

No.029 ■ブロードウェイ・ミュージカル『ビッグ・リバー』

先日、アメリカ発のミュージカル『ビッグ・リバー ~ハックリベリー・フィンの冒険~』(デフ・ウェスト・シアター)を観にいった。S席でかなり前のほう。舞台をよく見渡せる位置にあり、舞台の両端に据えてある字幕電光板もよく見える。金曜の夜だからなのか席もかなり埋まっていた。

実はあまり期待していなかった。出演者の3分の2を占める聴者は英語をしゃべりながら手話をするという話を聞いていたからである。主役はもちろんろう者。

浮浪児のハック(ハックルベリー・フィン)は厳格な伯母の家で退屈な日々を過ごしてたが大金を手にしたことにより、ハックの父親が舞い戻り、親権を主張、引き取ることに。ハックの父親は無法者で飲んだくれ。自由を求めるハックは大芝居を打ち、逃亡奴隷のジムとともにミシシッピ川に筏で漕ぎ出す。人種や境遇の違う二人が求めるのは自由だけだったが、さまざまな困難に出会うたびに二人の間に友情が芽ばえる。そして囚われの身になったジムを解放するためにハックは戦う・・・というのが『ビッグ・リバー』のおおまかなストーリーである。

『ビッグ・リバー』。直訳すると「大きな川」。ドラマチック的に訳すると「大いなる川」か。舞台にもなっているミシシッピ川のこと。

さて、主役のハック役を演じたろう男性はアメリカ人にしては小柄なのだが、躍動感にあふれたダンス・・・、ジム役を演じた黒人男性(聴者)と対等に渡り合えていた。演技力もあり、滑らかで洗練されたアメリカ手話をしていた。

ミュージカルというからには、音楽も歌もダンスもあるというアメリカ独特のショー形式やポピュラーソングの要素を加えた総合的性格をもつ音楽舞踊劇だ。すると手話による歌というのも出てくる。実は観る前から、手話コーラスのような歌だったら中座して帰ろうと決めていた。

ハックの歌う歌(手話)は、まさに手話ポエムの領域。音声言語の韻律にとらわれていない手話のリズムで美しく歌い上げているのである。もちろん手話の韻を踏んでおり、観ていて心地よい。

演出も心憎い。『ビッグ・リバー』の原作者マーク・トウェインに扮した語り部の役者は、ハックの声も演じており、ハックが歌うときも一緒にギターを片手に舞台上で歌うのである。私と一緒に観に行ったAさん(聴者)は、ハックの歌(アメリカ手話)と語り部の歌(英語)が見事に調和していて素晴らしかったと嘆息。

心憎い演出は他にもたくさんある。例えば、ハックの父親である。父親扮する役者が舞台に同時に2人も出てくるのである。一人はろう者、もう一人は聴者の役者で、二人で一つの役を演じるのだ。ろうの役者はアメリカ手話で、聴の役者は英語でセリフを言い、酔っ払っている様子も見事に一緒。歌っているときも同様であり、こんなに息の合った一役二者の役者は観たことがない。

脱獄した2人の白人役、年を召されたほうが聴者で若い方がろう者なのだが、年を召されたほうの役者が途中で「ろう者」役を演じたのもオモシロい。逆転の発想である。

ろうの役者のアメリカ手話に英語をのせるために舞台上に出てきた聴の役者は全体を通じて4人いた。この4人の役者のしぐさ、振る舞いもカッコイイ。

ただ、聴の役者に押されそうになっていたろうの役者もいた。奴隷で母娘役を演じた黒人の2人の役者である。母親役は聴者、娘役はろう者なのだが、母親の貫禄たっぷりの、舞台栄えするのに対し、娘役は、手話による歌でもあまりパッとしない。歌そのものはアメリカ手話なのだが、舞台の奥に消え入りそうな感じがするのだ。それだけが残念だ。

母親役の役者は英語で歌い上げながら手話を付けているのだが、それは、手話というよりも、手話を芸術的手段として振り付けたような感じであった。ハックのそれはアメリカ手話による華麗な美しい歌であるのに対し、母親役の役者の歌は優雅な振り付けを観ているようであった。というのも、聴者の役者にありがちな手話の音韻的エラーが全くみられなかったからである。つまり、振り付けではあったが、非ネイティブにありがちな雑音がなかったということなのだ。

黒人奴隷のジム役を演じた役者は演技力はものすごくあるというのが観ていてわかるのだが、やはり雑音が時々みられる。例えば、を意味するアメリカ手話の単語である。ネイティブの手話話者のとはやはり違うのだ。ハックとジムが一緒になって手話で歌う場面では、やはりハックに軍配をあげてしまう。

蛇足になるが、日本の芸能人(歌手)で、歌いながら手話をしている人がいるが、(手話の)雑音だらけで、まさに見苦しい・・・。

ただ、ミュージカルを通じて聴者の役者は英語を話しながら手話を付けている。いわゆるシムコムだ。だが、ジム役を除いて、シムコムによるセリフが非常に少なかったことが救い・・・。私はアメリカ手話が少しできるのだが、聴者役者のシムコムによるセリフは字幕電光板が必須品となった。

『ビッグ・リバー』のチラシに「かつてない劇的な体験!歌っていないのに、歌が聞こえる・・・」というのがある。これは、最後のほうに出演者が総出で歌うのだが、音楽がクライマックスに達したその時、鳴り止み、英語による歌もなく、手話だけの歌で歌っているというものである。

聴者的な発想なのだが「その静寂の瞬間、手話が醸し出す音楽が聞こえる」ということになるらしい。Aさんは「聴者の立場でいうとこの演出はスゴイと思う。音楽が突然止まったのに舞台からは音楽が聞こえてくるような気がして全身粟立った」のだそうだ。この演出、聴者のみに有効だったと思う。

補聴器を付けていたらまた感想は違うかもしれないが、私は日頃から補聴器を付けていない。聴者が「耳の人」なら、ろう者は「目の人」。だから、楽器奏による音楽は、舞台のセットの上にいるの奏者の動きで見えてはいるのだけれども、最後の総出による歌のシーン、粟立つような衝撃は感じなかった。だが、美しいと思ったのは確かである。

「聴者的発想、聴者主導の演出かもしれないけれど、音楽がまったくなくても、手話の音楽的美しさを聴者が体感的に知るにはよかったのかも」とAさんの弁。

そして観ていてオモシロかったと思ったのは、聴文化が強い場面(音楽等)がある一方、ろう文化が前面に出ていることだ。相手の注意を惹くときに肩を叩いたり、視線をあわせてからセリフを発したりするのだ。アメリカ手話の時でもシムコムの時でも必ず視線をあわせてから、である。

半分期待していなかっただけに、観終わった後は何だか嬉しい気分になった。満点はあげられないが、高得点のミュージカルであった。そしてため息をついた。

ろう文化と聴文化のギリギリの融合をめざすと同時に2つの異なる文化をさまざまなアイデアで尊重しあった心憎い演出・・・を日本はできるのだろうかと思うと、思わずため息が出てしまうのである。

何だかんだ言われているアメリカだが、アメリカのエンターティンメントの底力を感じさせたミュージカルであった。

『ビッグ・リバー』2004年9月28日~10月24日 青山劇場

(2004.11.1)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/01/06

N0.028 ■ろう者にも宿泊拒否・・・

読売新聞の気流に投稿が載った。栃木県の片柳富枝さんの「宿泊拒否を受け、無理解に悲しみ」というタイトルである。

ろう学校時代の友人2人と栃木県にあるペンションに宿泊しようと電話をしたところ、耳が聞こえないことを理由に宿泊拒否されたというのだ。

ペンションに予約の電話をかけた片柳さんの友人が抗議の電話を改めて入れたところ「3人が泊まることで他のお客様の迷惑になりますし・・・」とペンション側の説明。

ろう者の宿泊拒否は今に始まったことではない。私の両親はろう者であるが、彼らが若かったころ、宿泊拒否は当たり前のことだった。聴者を同行させるという苦肉の策を取ったり、ろう者に理解のある宿泊施設をあたってみたりとろう先人達は苦労をされてきた。

時代は変わり、ろう者も気軽に国内のみならず海外にも出かけ、海外の宿泊施設に泊まり、観光を楽しむようになった。宿泊拒否はなくなったかのようにみえた。

熊本・南小国町のアイレディース宮殿黒川温泉ホテルが国立ハンセン病療養所入所者に対する宿泊拒否をしたことで大きな社会問題になったことは記憶に新しいが、宿泊拒否の問題、ハンセン病元患者だけでなく、外国人、ろう者にも言えることなのだ。

以前、北海道・小樽市の浴場で外国人が入浴を拒否されるという事件があった。日本国籍をもった白人にも入浴を拒否した。浴場側はいろいろな理由を並べ立てたが、日本人とは異なる容姿をもつ人々に対する拒絶反応が現れているように思う。

ろう者に対する宿泊拒否が大きな社会問題になってこなかったのは、ろう者のことが見過ごされてきたこともあるだろうし、宿泊拒否を受けたろう者自身も社会に告発する術を持たず、泣き寝入りしてきたということもあろう。

だから、今回の片柳さんの勇気ある行動に敬意を表したい。読売新聞社に片柳さんとコンタクトをとりたいとメールをしたところ、片柳さん本人から連絡があった。

当初は穏便にいきたいとのことでペンションの名前、連絡先を教えてくれなかった。しかし、個人の問題にして決着させるのでなく、ろう者全体の問題であるのだと後日になって、ペンションの名前と連絡先を教えてもらった。

現在、栃木県聴覚障害者協会が動いているとのことである。だが、抗議運動は、ろう運動の専門家や専門集団にお任せするのでなく、私たちにできることはないかと考えてみた。ペンションにお手紙を書いたり、ファクスするのも立派な運動のひとつであると思う。

同僚の市田氏が法律面から攻められる部分はないかと調べてくれた。旅館業法がそれである。

旅館業法
第5条 営業者は、左の各号の一に該当する場合を除いては、宿泊を拒んではならない。
1 宿泊しようとする者が伝染性の疾病にかかっていると明らかに認められるとき
2 宿泊しようとする者がとばく、その他の違法行為または風紀を乱す行為をする虞(おそれ)があると認められるとき
3 宿泊施設に余裕がないときその他都道府県が条例で定める事由があるとき

栃木県旅館業法施行条例
第11条 法第5条第3号の規定による宿泊を拒むことのできる事由は、次のとおりとする。
1 宿泊しようとする者が、泥酔者であって他の宿泊者に対して著しく迷惑を及ぼすおそれがあると認められたとき
2 公衆衛生の保持に支障があると認められるとき

旅館業法の範囲で解釈すると、耳が聞こえないことが宿泊拒否の事由にならないのは明らかである。

また、この法律を何某MLで紹介したところ、MLのメンバーから「知識として知っていれば、何らかの対処方法をとれていたのかもしれない」と5年位前に愛知・豊田市のビジネスホテルから受けた宿泊拒否に無抵抗でいたことを残念がっていた。

ハンセン病元患者については、すでに治癒した場合は伝染性がないものと明らかになっているのに、偏見が社会一般に根強く残っていて、ハンセン氏元患者と同じ湯船につかりたくないという客がいるからだと宿泊拒否したものだ。誤解と偏見からくるこの宿泊拒否は明らかに法律に抵触し、違反でもある。

ろう者、ハンセン氏元患者、外国人。いずれも日本人が標準<スタンダード>とする規準から逸脱しているものとみなされ、日本の社会はそれを異質なものとして除外する。

日本が真の多文化共存の社会をめざすのなら、宿泊拒否の問題を、大手ではない個人業者のしたことと片付けて終わりにすべきではない。

片柳さんが宿泊拒否を受けたペンションは「花奈里(かなり)」である。連絡先を下記に示すが、たまたま今回は「花奈里」であった。他にも宿泊拒否をしている施設はあるかもしれない。お手紙を書くなら、そのことを念頭において
欲しい。

ペンション 花奈里(かなり)
〒325-0304 栃木県那須郡那須町高久甲5423-2
TEL 0287-78-3181 FAX 0287-78-3182

栃木県庁
〒320-8501 栃木県宇都宮市塙田1-1-20
メール kocho@pref.tochigi.jp

那須町役場
メール kikaku@town.nasu.tochigi.jp

(2004.10.25)

| | コメント (0) | トラックバック (2)

No.027 ■なぜ日本語対応手話のほうがエラくみえるのか?

No.024,025,026と続けてシムコムの話になったが、今回もシムコムにまつわる個人的な話をしたい。

私自身については、19歳で上京したときから手話のわかる(程度は問わない)聴者には声を付けた日本語対応手話、即ちシムコムを、ろう者には日本手話・・・と自然に何の疑問も持たずにコードスイッチングをしていた。

手話のわからない人にはできるだけ声で話し、通じない時は筆談で(筆談になることが多かった)というやり方をとっていた。大学時代の先生や同級生、寮の同室の人等にである。

口話法による教育をどっぷりと受けてきたためか、初対面の人(聴者)に手話でというのは到底考えられなかった。

日常生活ではもちろん手話を解しない人々に接することが多い。レジの人、薬局の人、駅員、タクシーの運転手・・・そういう人々には声で話しかけてみて通じるようだったらそのまま声で、そうでない時は自分からメモを取り出して筆談ということが多かった。(通じない時のほうが多かった。)

そして、手話のわかる聴者には声を出しながら手話をした。手話サークル等の集まりでは当然、声付きのシムコムになるし、手話サークルや地域の登録手話通訳者団体から講演を頼まれた時は、意識しないと途中で声が消えてしまう(それは日本手話にスイッチングしかけるという意味でもある)ので、注意して声を出し続けるようにしたものである。

当時の私はなぜシムコムを使ったのか。

それはシムコムを使っているほうがスマートで知的にみえたからである。両親や両親のところに遊びにやってくるろう者が使うような手話は教養に欠けた人々が使うものであって、日本語ができて、教養のあるろう者はシムコムで話すべきだと思い込んでいたし、また、そういう時代がくると信じていた。

学生時代は、聴覚障害を持つ学生の団体のリーダーになった。私の周囲はインテグレーションした学生ばかり。聞こえないということすらも受け入れらず、したがって手話(=シムコム)も使おうともしない学生がいる。私のよく知っているろう者はそこにはいなかった。活動は2年位続けたが、ある種の居心地の悪さを覚え、地域のろう協会活動のほうに熱心になるという経験がある。

私には強烈で忘れられない思い出がある。夏休みで帰省した時のこと。両親のおしゃべり仲間が実家に集まっていて、私の手話をこう評したのだ。

「あれま、見ないうちに、すっかり東京の手話になったねえ」。

彼らの「東京の手話」は、すなわち日本語対応手話のことをいうのだ。

言われた当初は、東京での生活で、田舎とは違った垢抜けた手話になったのかなと思ったりしたのだか、続きのフレーズが「大学に行っていて、頭もいいからね、手話もね、東京のになってしまうんだわ」。

「東京でもあなた達みたいな手話の話し手はたくさんいますよ」と私は言いたかった。しかし、それより以前に私の手話が両親のそれとは違うもの、つまりろう者の手話とは違うものと評価され、なぜか疎外感を覚える自分に戸惑いを感じたことのほうがショックだった。

シムコムは教養のあるろう者の用いることばなのだから、彼らが下した評価は自分の優越感を満たすものであり喜んで受け入れるべきなのに、アレルギー的反応を示す自分がどうしているのかと自問自答した。

シムコムが決して教養のある言葉だとは心の底から信じていないということにも気づいた瞬間でもあった。シムコムは、間に合わせの、その場しのぎのコミュニケーション手段でしかないということにも気づいていた。

日本手話にはある種の達成感が伴い充足感を感じるのに、シムコムだと自分の考えをうまく伝えきれないもどかしさ、相手のシムコムを読解するのに眼精疲労を感じるくらいの大変さには自ら目をつむり、シムコムがろう者と聴者の間の架け橋となる立派なコミュニケーション手段になりうるのだと言い聞かせてきた。

私は長い間、シムコムは解読に骨の折れる手段であるが、解読できる人こそが日本語のできるいわゆる頭の切れる、エリートな人なのだと自分に言い聞かせていたのだ。

「シムコムはもう使うまい」と決心したのは「東京の手話」事件からしばらく経ってのことである。

1991年、東京で世界ろう者会議が催された。京王プラザホテルをメイン会場に国内からは6000人、海外からは1000人の関係者が参加、盛大な大会となった。私はボランティアとして約10日間、大会の裏方にいたのだが、当時、NHK「みんなの手話」に講師として出演していたこともあって、大会に参加していたろう者から握手を求められることがたびたびあった。

ろう者は異口同音に「手話がうまいね、通訳者なのに」「テレビに出ているくらいなのだから難聴者でしょ」と私にいうのだ。

「みんなの手話」では、日本手話は学習者(視聴者)には難しすぎるという理由で、初めからシムコムを取り上げていたため、私もシムコムでモデル文を提示していた。そんな私をみてろう者は手話通訳者か難聴者と思い込んでいたらしい。

「私はろう者ですよ」と日本手話で話すと、その次にくるのは「あなたは頭がイイね~」である。

ろう者の間では、シムコム話者=頭のイイ人=日本語のできる人 が使っている という構図が成り立っているのだ。何を言ってるのかわからない、話の内容がわからないと文句をつけながらも、頭がいいからシムコムを使うのは仕方がない、という結論におちつくのである。

「音声言語を獲得することは、社会人として立つ-したがって一般に人間として生きるための一要件となつているわけです。聾唖も言語を学ぶ必要があるのは、そのためで、世間にたつためには、「手話」では役に立ちませんし、それだけでは文化社会の生活から除外されることになります。日本人として日本語を習得していなくては、日本の国民たる資格がないともいへませう。」※

これは佐久間鼎(さくま・かなえ)が1942年に「聾唖の心理」『日本語のために』に書いた一節であるが、現在も、聴者主導のろう教育の支柱にその考えが脈々と流れているのではないか?

そして、メルマガの読者(ろう者)からいただいたメールも核心をついていると思うので、最後に原文ママで紹介したい。

*---
全日本ろうあ連盟の幹部の多くの人が日本語対応手話で喋っていることで私たちのろう者に大きく影響を与えていることは間違いないのです。なぜか言いますと、日本語対応手話通訳(?)、手話学習者(日本語対応手話)が見ている限りは日本語対応手話が上手に使っているろう者、手話通訳者は「頭が切れる人」「運動が出来る人」だと思っている人が非常に多いのです。逆に私たちみたいネィテイブな手話を使っているろう者、通訳者などは「出来ない人」「能力ない」と見てしまっているのが現状です。
---*


※安田敏朗「日本語学は科学か ~佐久間鼎とその時代~」2004年9月、三元社 より引用。定価2,900円(税別)。

(2004.10.18)

| | トラックバック (0)

2005/01/04

No.026 ■サイレント・シムコム

数年前のことだが、ある県の手話通訳者による組織が自分の機関紙に「聴者が声ナシで手話をした場合、日本語への通訳はしません」という主旨の宣言を出した。

1995年の「ろう文化宣言」以来、日本手話を学び、日本手話で話そうとする聴者が増えた。

講演会における質疑応答等のような公の場でも日本手話で話そうとする気運が高まっていた時期に「聴者の声ナシ手話は通訳せず」という宣言が出たのである。

聴者は何か発言するときは必ず声を付けること。これは現在もなお、暗黙の、当然の了解事項になっている。

例えば、あるろう者の大会の分科会に記録員として配置された手話通訳学科の学生がろうの司会に促されて自己紹介をしたところ、通訳者から「声を出して!」といわれてしまったことがある。

私の同僚のI氏のように学会レベルでも日本手話で発表するという聴者は日本では残念ながらまだ非常に珍しい存在。全国規模の手話通訳関係の大会では声に手話を付けるのは当たり前のことだが、I氏のような大人物になると周囲も遠慮するのか(?)声を付けてとは言わなくなるらしい。

ただ、チョット困った問題も出てくる。声なし手話=日本手話、とは限らないからだ。

声を付けなくても「声アリ手話」つまり日本語対応手話に見えてしまうこともあるからだ。声ナシ手話でも声アリ手話、つまりサイレント・シムコムで話している聴者がいるのだ・・・。そして、そのサイレント・シムコムを話している聴者本人が「日本手話」で話しているツモリになっているのだから、ちょっと始末に終えない・・・。

NHK手話ニュースでは、聴者キャスターは声を付けて手話をすることが原則となっている。何度か異議を申し立てた後、昨年4月よりショートニュースに限って、アナウンサーが原稿を読み、聴者の手話キャスターは手話だけになったことをご存知だろうか。tanaka

そして・・・声アリ手話と声ナシ手話で表現に差が一番大きく出たのはコーダの田中清(たなか・きよ)さん(写真)。田中さんは日本語と日本手話のバイリンガル話者であるから、声アリと声ナシとでは全然違うというのは当然のこと。

だが、悲しきかな、単純に声を付けなければ日本手話になると思い込んでいる手話学習者や手話通訳者がいまだにいるようなのだ。

話をもとに戻して、「声ナシ手話には通訳を付けず」という宣言自体は絶対オカシイと思うが、その手話がサイレント・シムコムだったら「声を付けてよ」と言いたくなる手話通訳者の心情もわかる。

「日本手話と日本語対応手話の違いって何ですか?」と最近よく聞かれる。セオリー通りに言うのならば、「日本手話はろう者の自然言語で、日本語対応手話は大雑把にいえば日本語の語順にあわせて手話を付けたものです」と答えることにしているのだが、相手はなかなか納得してくれない。

最近はチョット面倒になってきて、「ラテン語を知っていれば、正しいラテン語とそうでないラテン語を見わけられますよね、それと同じで、日本手話を知っていれば、日本手話か日本語対応手話かを見わけられますよ」と言うことにしている。

サイレントであろうかなかろうか同じシムコム(対応手話)でも聴者の場合は「声」に手話を付けた感じ、ろう者は「手話」に声を付けた感じになってしまう。つまり、前者は手話に必要な要素がたくさん抜け落ち、日本語が優勢になってしまって、ろう者にはわかりにくくなっている。後者だと手話に必要な要素(たとえば、非手指副詞等のNMS)がけっこう生き残っている。

いずれにせよ、シムコム(日本語対応手話)はろう者にわかりにくいシステムになっているのは変わりない。

ただ、声ナシ手話(=サイレント・シムコム)が日本手話なのだという思い込みだけはナシにしてもらいたい。

(2004.10.11)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

No.025 ■声を付けて手話を話すということ

メルマガNo.024に引き続き、今回も声を付けて手話をすることについて考えてみたいと思う。

日本手話と日本語対応手話(シムコム)の違いがわからない人は、手話に声を付けて話すということに何の疑問も持たないかもしれない。日本語を話すそばから、それに対応した手話の単語を付けていけばすむ話なのだから。

だが、声を付けて話すにもかなりのスキルが必要のようだ。例えば、見ている人がわかるようにと手話の空間活用が推奨される。

例えば、「コーヒーと紅茶とどちらがよろしいですか」という例文では、比較対象物が何であるのかを明示するために、右側に「コーヒー」、左側に「紅茶」をおき、「いい(=よろしい)」ではろう者に伝わらないとして「好き」におきかえ、「どっち」「好き」「~か?」と単語を並べるというような工夫が求められるのだ。

そうすると、声付きの手話だと、手話をしながら、「コーヒーと…紅茶…と…どちらが好きです…か」というような言い方になってしまう。

日本手話のネイティブ話者の間では、上のような工夫はしない。それで、どうするのかというと「コーヒー」も「紅茶」も同じ空間で表出されるのだ。そもそも、日本手話を話すのに何の工夫もいらない。学習者が単語を覚えるためにはある程度工夫が必要になるかもしれないが、文法を正確に表現するのに、どこに工夫を求める余地があるというのだろうか。

ここでは日本手話の重要な構成要素のひとつであるNMS(非手指動作)が重要になってくる。まず、何と何といった「~と~」にあたる並列のNMSが出る。強調を伴う場合は、強調のNMSも出る。文末ではWH疑問のNMSが出るというのは当然のことである。

さらに語順も変わる。日本語対応手話では「コーヒー、紅茶、どっち、好き、か」という並び順になる。それに対し、日本手話における自然な語順としては、「コーヒー、紅茶、好き、どっち?」である。そして「好き」の部分で「~なのは…」にあたるNMSが表出される。

ろう者は、聴者の日本語対応手話のことをしばしば「聴者的手話」と揶揄する。「顔の表情が足りない」「気持ちがこもっていない」という時、実はそれは手話の文法であるNMSが備わっていないということを意味する。

聴者が手話を話すときに声を付けるということは、手話の文法が損なわれるだけでなく、言語行動の規範も日本語のそれとなる。例えば、ろう者に話しかけるときに「ちょっとすみませんが~」「あの~」と言ってしまったり、文中に「え~」や「あの」「~それで…」がポンポン出てきたりするのだ。

ろう者は、聴者の「あの~」という言い出しで、「あ、ろう者的手話(=日本手話)があまりできない人だな」と見抜いてしまう。この「あの~」に触発され、聴者にあわせた日本語対応手話モードにコードスイッチングしまうろう者もいる。

手話のわからない聴者と(その場を)わかりあえるために「聴者は手話に声を付けて話すべきだ」という主張の是非については前号にも簡単ではあるが書いた。それに対し、メルマガ読者(ろう者)から「あなたの声はきれい。だから、手話をするときも声を出したほうがいいとろう者に意見する手話通訳者や手話サークルの人がいるのですが…」とメールが…。

きれいな声を出せるのだから、声を出さずに手話をするのはもったいないなこと。発声(発話)が下手にならないためにも、手話で話すときにも意識して声を出すようにしたらどうか、といったようなことは私も以前、言われたことがある。

手話は音声言語の補助的手段であると考えている点において、日本手話が日本語とは異なる別個の言語であるという視点がすっぽり抜け落ちているという証拠にもなろう。

さらには、ろう者が聴者のように(きれいな声で)話すことを強制されるという点において、すでにろう者を抑圧しているということになる。ここでいうきれいな声というのは、オペラやソプラノ歌手のような「きれいな声」をさすのでなく、聴者と同じように話せることを「きれいな声で話す」というのだ。

ろう者の良き理解者であると期待されている手話通訳者や手話サークルの人までがろう学校の先生や言語聴覚士と同じようなことをいうのは非常に悲しいことだ。

(2004.10.4)

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2004/12/31

No.024 ■聴者は声を付けて手話を話すべき?

私の学校(国立身体障害者リハビリテーションセンター学院・手話通訳学科)では、入学早々から日本手話漬けとなる。だから、学生達は手話で話すときに声を付けることはむしろ至難の業だと思っている。日本手話と日本語の言語構造は全く異なるから、声を付けようとすると手話が思うように出なくなるというのは、当然といえば当然のことである。

しかし、「聴者は手話をする時は必ず声を付ける」ということが当然という風潮が一部の地域、組織でいまだに根強い。

私が都内のある区の手話講習会で日本手話を教えていた頃(まだうら若き?20代前半の話)、その講習会の講師のほとんどが東京都の登録手話通訳者。その一人を仮にAさんとしておこう。

手話講習会が終わると数人の講師を受講生が囲むようにして飲むというのが慣例になっていた。Aさんももちろん一緒である。Aさんと私がいたテーブルでは、手話を習い始めて数ヶ月というBさんと3年目というCさんがいた。Cさんは私から日本手話を習った経験があり、日本語対応手話でなく日本手話でというポリシーを彼なりに持っていた。

しかし、Cさんが日本手話で話そうとすると「手話の初心者のBさんにもわかるように声をつけて話しなさいよ」とAさんはCさんに注意するのだ。最初から最後まで日本手話で話す私には注意しないのに。

Aさんのような聴者は「ろう者には声の強制はできないが、聴者には声を出すよう奨励すべきである」と考えている。Aさん自身も手話で話すときは必ず声を付けている。手話に声をつけることで「その場にいるろう者も手話のあまりできない聴者も同時にわかることができる」というのだ。

Aさんは手話通訳歴20年以上。それに対しCさんは手話歴3年。Cさんには言い返す術も持たず(もし言い返したら、その組織でやっていけなくなるのだ・・・)、その後はずっとだんまりを決め込んでいた。まるで発言権が奪われたかのように。

Cさんに代わり、声付きの手話はろう者にはわかりにくいということを忘れていないかとAさんに私が迫っても、「ろう者は声付きの手話を理解できるよう努力するのが最大の礼儀にかなうのではないか、声なしの日本手話でいうのは単なる我が儘」とAさんも態度を変えようとしない。

私はこれ以上何を言っても無駄だと悟り、早々に切り上げたのを覚えている。現在は私が住まいを変えたため、地域型活動タイプのAさんと会う機会はほぼなく、Aさんのあの尊大な声付きの手話で話すというスタイルは今も変わっていないのだろうなと思っているのだが・・・。

手話の初心者Bさんには、確かにCさんと日本手話で話しているときは、その内容は理解できないだろう。しかし、語学というのはそういうものなのだ。

Bさんには「日本手話をもっと勉強すれば、Cさんのようにろう者と日本手話で話せるようになるのだ」という夢を持たせたかった。Aさんは、それを「みんなが同時にわかるため」という口実のもと、無残にも砕いた。

日本の聴者のほとんどは母語が日本語である。だから、声を付けて手話をしようとするとどうしても音声言語である日本語のほうが優勢となり、手話は発話される日本語にあわせて表出されてしまう。

だから、例えば「今夜の会議だけど、議題はどうする?」といいたいときに、声付きの手話、つまり、日本語対応手話等のシムコムでは「今日+夜、会議、しかし、議題、何、か?」となる。日本手話だと「今日+夜、会議、(NMS=それで)、議題、何?」。

お気づきだろうか? 日本語では逆接でないときでも「~だけど」「~についてですけれども」というように話されるが、日本手話の文では/しかし/の単語は、逆接文のみに用いられる。そういう意味では英語と似ている。

声付き手話だと、そういった逆接文でないときにも、頻繁に手話単語/しかし/が用いられ、見ているろう者はそのうちに相手が何を言いたいのかわからず混乱してしまう。頭が日本語モードになるが、ローマ字で書かれた日本語を解読する感じにも似て、根気のない私の場合だと数分で疲れてしまう。

9月中旬に実習先に引率に行った時のこと。実習先で学生同士が日本手話で話すのをみた地元の聞こえる人の良さそうなおばちゃまが目をくりくりさせて「どうして声をつけないで手話をするの?」と学生に聞いたという話が実習後の反省会で話題になった。

手話に声を付けて話せば、その場にいるろう者も手話のわからない聴者も同時にわかることができるというのはもはや「幻想的」なことにすぎない。

(2004.9.27)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004/12/28

No.023 ■(語学としての)手話の本

私は日本手話教育研究会という団体の世話人をしているが、その世話人をしている関係で、アメリカのろう者で手話の先生をしている人から「日本ではどうなっているのか」という問い合わせがあることを知った。

そのろう者のいうには、日本でアメリカ手話を教えていたが、その生徒さん(聴者)がなんとアメリカ手話の本を出版してしまった。その生徒さんの学習歴は1年くらい。

その話を聞いたときは思わず目が点になった。手話を1年ほど習っただけで手話の本を出そうということ自体にである。まさに、アンビリバボーである。でも、手話は簡単に覚えられるというイメージが聴者の間で一般的になっているのなら、驚くに値しないのかもしれない。

メルマガ22号にも書いたが、手話を1年位習っただけで、手話の本を出そうと発想すること自体、手話のことをちょっと勉強しただけで簡単にマスターできる程度(=ゴリラやチンパンジーにもわかる程度)だと、まさに手話を舐めている行為に等しいと私は思う。

英語や中国語のような音声言語では、そういうヘンな現象はみられない。音声言語の語学テキストは、その言語のネイティブか、ネイティブのように流暢に話せる(または書ける)人が書いていると思うが、手話に限っては、ろう者の手話をあまり理解できない人にでも書けるのだ。そして、その人の手によって作られたテキストを平気で出版する出版社も問題だ…。

たいていの手話の本は間違いだらけで嘘が書かれている。

ある手話のテキストでは、語レベルでは、「鶏」の動きの説明の部分で「右手の親指と人差し指をのばし、親指を額にあて、人差し指を曲げる」とあった。

えっ、曲げる?? 曲げないで、伸ばしたまま人差し指を前後に微動…が正しいのだが。

文レベルでは、「歯医者に診てもらったほうがいいよ」という日本語の例文の下に、聴者がモデルの、手話表現写真が4枚掲載されている。写真は「歯」「医者」「行く」「いい」で、写真の横には手話の動きが解説されている。

「歯」「医者」「行く」「いい」という手話単語を並べ、その動きの解説だけというテキスト構成になっている。そして、手話の重要な文法であるNMS(非手指動作)の解説がどこをみてもまったくない。

NMSによって、上の4つの語を用い、同じ語順でも、「歯医者に診てもらったほうがいいよ」だけでなく、「歯医者にいってよかった」「歯医者にかかることはよいことだ」「歯医者に行けば良かった」等のように意味が変わってしまうのに、テキストにはまったくそのことにふれていない。

アマゾンで手話の本を検索してみたら、和書だけで357点がヒット。楽天ブックスでは368点。

1963年に京都で初めて手話サークル「みみずく」ができた時は、市販の手話の本はなく、財団法人全日本ろうあ連盟の「わたしたちの手話1」は6年後の1969年にようやく刊行。

全国で初めて手話サークルができてから41年を経た2004年の今、ネットで検索しただけで約360点の手話の本がヒットするようになった。ろう者が街中や電車の中で手話をしているとジロジロみられたあの時代から考えると、隔世の感があるし、手話の広がりを象徴する出来事として歓迎したいのだが…。

でも、よくみてみると、ろう者自身が手がけた(自らが著者、あるは監修)手話の本というのは非常に少ない。

手話ソングや手話歌の本が約35点もある…。手話ソングで手話が上手になると思って購入する人がいるということなんだろうか。そして、この手話ソングや手話歌のテキストの著者のほとんどは…聴者である。

「手話ソングや手話歌の上手な人=ろう者の手話ができる」とは限らないし、むしろ、手話がまったくできないと考えておいたほうがよさそうだ。それなのに、刊行点数が多いのはいったいどういうことなんだろうか。

大きな本屋さんの手話コーナーの前に立つたびに、まさに「悪貨は良貨を駆逐する」さながら、手話の本については「悪書は良書を駆逐する」状態だと感じるのは私だけだろうか。

(2004.8,30)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

No.022 ■類人猿は手話を話せるという報道について

先日、AP通信が「ゴリラが手話で歯痛を訴え、無事治療を受けた」というニュースを配信し、日本でもテレビや新聞で紹介された。

記事の趣旨は下記の通りである。

「アメリカ手話(ASL)で1,000以上の言葉を話せるゴリラが虫歯が猛烈に痛むことを手話で訴え、抜歯手術を受けた。カリフォルニア州ウッドサイトにある「ゴリラ基金」で飼育されているメスのローランドゴリラで名前はココ。ココは1ヶ月ほど前から痛みを手話で示すようになり、研究者が痛みを示す表を見せたが、激しい痛みを示す9や10を指した。そのため8月8日、抜歯手術を受け、無事成功した。ココの意思伝達は明快。どれほど痛むかちゃんと伝えてくれたとスタッフは話している」

似たような例が前にもあった。チンパンジーのワシューである。ワシューもASLが話せるチンパンジーとして有名になった。

ワシューの時は、アメリカのろう者が「ワシューが表現しているのはとてもASLにみえない」と指摘したが、ココはどうであろうか? 

ココの映像をみられるサイトがあり、さっそくチェックしてみた。私はASLは片言程度しか話せないが、映像をみている限り、ココの示したのはASLのようなもので、しかしASLではないというのは確実にいえると思う。つまり、ココが使ったのは手話でなく身振りやジェスチャーなのだ。

けれども、知能の高い動物、例えば、チンパンジー、ゴリラ、イルカ、犬等は人間の話す言葉を理解できているのでは?とつい思ってしまう人もいるだろう。

「新聞を取ってきて」というとちゃんと新聞をもってきてくれるのだから、うちの犬は人間の言葉がわかるわよという人もいる。

確かに動物と人間がお互いにコミュニケーションをとれているという実例もいくつかあるだろう。人間が一方的にそう感じているだけの事例もあるだろうし、また、相互にコミュニケーションできたという事例もあるかもしれない。

対人間だけでなく、動物同士でも何らかの方法でコミュニケーションをとっているということは簡単に想像できる。

酒井邦嘉は「言語の脳科学」(中央新書)の中で次のように述べている。
一部を引用してみよう。

---------
動物も別の形でコミュニケーションをしているのは確かである。フリッシュが見つけたように、ミツバチは8の字ダンスを使って、蜜のある花の方向と距離を伝える。このコミュニケーションを「言語」の一部として認めるならば、自然言語とは全く異なる別の体系を含めてしまうことを忘れてはならない。これは単なる言語の定義の問題ではない。本質的に性質の異なるものを同じ「言語」だと認めた時点で、言語の科学的探究が終わってしまうのが問題なのだ。(27ページ)

人間がチンパンジーやゴリラに教えたのは、意味を持つ「ジェスチャー」であって、自然言語としての手話ではない。(29ページ)

類人猿はヒトに近い認知能力があるのだから、学習意欲の旺盛な個体が適切な「教育」を受ければ、ある程度までコミュニケーションできるようになっても不思議はない。シンボルを使っているように見える類人猿の能力は、すべて連合学習によって説明できるのである。(30ページ)
---------

酒井は、類人猿は自然言語としての手話でなく意味を持つ「ジェスチャー」でコミュニケーションしているという見方をしている。

酒井のこの論文を読み、私は安堵した。しかし、問題の本質は別にあると私は思う。

ゴリラやチンパンジーにも使える程度の、音声言語より劣っている手話というイメージを読み手に与えてしまう結果になっていることを問題にすべきだと思う。つまり、手話をおとしめる結果になっている報道を問題にすべきだ。

「手話は言語である」ということがいわれるようになっても、それは、もしかすると、ミツバチの8の字ダンスと同じ程度の、コミュニケーションとしての手話という認識を読み手に与えているのかもしれないのだ。

手話が本当に原始的でゴリラやチンパンジーにわかる程度のものであるとするのなら、今回の報道にろう者は立腹する必要はない。ゴリラやチンパンジーにわかる程度のろう者の手話が、なぜ人間である聴者に読み取れないのか、というブラックジョークが成り立つけれども。

しかし、今回の報道は、聴者に手話は類人猿にも使えるくらいに簡単という誤解を与え、ひいては、手話やろう者に対する差別、偏見を助長する結果になるかもしれない。

斉藤道雄さんから次のようなメールをいただいた。斉藤さんは「もうひとつの手話」の著者である。斉藤さん本人の許可を得て、一部を長くなるが転載する。

---------
(中略)ろう者が、どこかのろうあ連盟のように、ひとつの戦略として「手が動いていればみんな手話」というのなら話はかんたんだ。たぶんゴリラは「手話」を使っていたのだろうし、その手話は「ゴリラ手話」として評価されなければならない。しかしその場合の問題は、そうすると日本手話も対応手話もゴリラ手話もみんなおなじ、ということになってしまう。
 
これがもし、「ゴリラが日本語で歯痛を訴えた」となったら、どうなるだろうか。そりゃあおもしろい、と笑ったあとで、「でも、アメリカのゴリラがなんで英語を使えないの」という疑問がうまれるだろう。それとおなじことではないだろうか。これ、けっこう高等な社会学のテーマになる。
 
ろう者は、これからゴリラの仮面をかぶって○○新聞社に押しかけ、「わたしは歯じゃなくて、こころが痛む」と、手話で訴えてみてはどうだろうか。(それやるなら、ぜひビデオに撮りたい)

いやまあ、冗談だけれど、ゴリラやチンパンジーの手話について、アメリカでどれほど研究が行われ、そのいかがわしさが問題になってきたかを、おそらく○○新聞は知らない。アメリカでも、かつては、ろう者が手話を使うと「そんなものは言語ではない」とバカにされた。しかしチンパンジーが手話を使うと、「これこそ言語だ」と賞賛された。そういうことについて、アメリカのろう者は抗議しなかったのかなあ・・・だからまたぞろ、こんな記事が出回っているんだろうか。
---------

斉藤さんからのメールにあるように、ろう者はもっと怒るべきである。「聴者の考えていることはわからないよ」と肩をすくめて終わりでなく、ろう者はもっとこうした報道に敏感になり、そして、抗議するなり、具体的に運動を進める必要があると思う。

今日のメルマガの最後に。

私は、斉藤さんのような、くっ付かず離れずソト側から応援してくれている聴者の存在を嬉しく思う。

※時事通信 8月10日付
ゴリラが手話で歯痛訴え=治療は無事成功-米加州

※朝日コム 8月12日付
ゴリラが手話で「歯痛」訴え 米で無事に抜歯手術

▲酒井邦嘉「言語の脳科学」2002年、中央新書、900円(税別)

▲斉藤道雄「もうひとつの手話 ~ろう者の豊かな世界~」1999年、晶文社、1,900円(税別)

(2004.8.23)

| | コメント (0) | トラックバック (1)

No.021 ■ろう者流の挨拶を学生に指導??

大学院は7月半ばから夏休みに入ったが、私の勤務先の学院は7月末まで授業があり、7月31日からようやく夏休み。しかし、夏休みの宿題があるためか、学院にある個別学習室に足繁く通う学生もいる。

個別学習室は私のいる教官室の隣にあり、そこにいくためには、近道なら、教官室の前にある廊下を通らなければならない。ちなみに教官室のドアは開きっぱなしである。

夏休みに入り、静まり返った5階の廊下をたまに学生が通るのだが、教官室の前で一旦足をとめて、自分の存在をPRする学生が一人もいないのだ。

学生がすう~と通るたびに、その姿を目の端でとらえて「今のは誰や?」と真向かいの机に座っている同僚の宮原先生(聴者)に聞くのだが、当然のことながら、宮原先生もわからない。

宮原先生のいうには、教官室に顔を出さないでエレベーターのそばにある教室に入り、そして黙ったまま帰る学生もいるというのだ。

ろう者の非常勤の先生達がとる行動は学生のとはまるで正反対である。ろうの先生達は、学院に出てくると、必ず教官室に出てきて、教官室の誰かに「は~い」と手を上げ、「私はここに来ているわよ~」と自分の存在をPRする。

授業を終え、帰るときも教官室の誰かに「私はこれから帰っちゃうわよ」と宣言してから帰る。そうしておけば、後で学生に「○○先生は?」と聞かれても「あの先生なら帰ってしまったよ」と答えることができる。

ある日、誰もいないと思っていた個別学習室をのぞいてみるとかなりの学生がいてビックリしたことがある。これはとどのつまり、教官室の前の廊下を素通りする学生が多いということなのだ。

聴者に廊下を素通りする学生が多いことをどう思うかとたずねたところ、案の定「特に用事がなければ素通りしてもらったほう