No.067 ■ろう者のカラオケ
久しぶりに本屋に行ってみた。大学院生をしているのに「久しぶりに」というのが情けないところだけれども。
欲しい本はアマゾンを通じて注文しているのだが、本屋に行ってみると本のタイトルの文字が次から次へと目に入ってくる。ネットで検索しているのとはまた違って、視覚的に情報が四方から入ってきて知的興奮をそそられる。
しかし、手話の本のコーナーだけは…特に手話コーラスや手話ソングを扱った本だけは目が自動的に?ブロックしてしまう。
手話コーラスや手話ソングがメロディや音楽にあわせた手話表現である限り、それは聴文化の副産物に過ぎず、聴文化とろう文化のコラボレーションなどと形容してはいけない。
手話コーラスや手話ソングが「聴文化とろう文化のコラボレーション」だという人がいたら、私はその人に拳骨をひとつお見舞いしてやりたい。
仮に「聴文化とろう文化のコラボレーション」であるとしよう。
手話コーラスや手話ソングを、毎日の生活の中に「あたりまえに」取り込んでいるろう者は…少なくとも私の知っている人の中にはいない。
音楽を聴く、弾く、歌う、習う、買う等…聴者の世界ではあたりまえになっているのと同じように、手話コーラスや手話ソングを観る、歌う、習う、買う…というのは、ろう者にとっても日常的なことだろうか? 答えはもちろんノーだと思う。
ろう者が手話コーラスや手話ソングに参加するのは、手話サークルやろう協会の催すイベントの時だけというのがほとんどではないだろうか? これでは、手話コーラスや手話ソングが聴文化とろう文化のコラボレーションだとは、お粗末にもいえない。
ところが、唯一の例外がある。それは「ろう者のカラオケ」だ。手話ソングでもない手話コーラスでもない「ろう者のカラオケ」。ろう者が歌うものを「ウタ」としよう。
不特定の人を対象に披露する手話コーラスや手話ソングと違って、見知った同士の、いわば閉ざされた空間で行なわれるカラオケのウタ。だからこそ、ある一種の開放感を伴って、ろう者は、うたって踊るのだ。
カラオケをするろう者の割合は、カラオケをする聴者の比率からいうと、まだまだ少ないだろうと思うが、少なくとも手話コーラスや手話ソングを好きだというろう者よりはずっと多いと思う。
かくいう私も、先日、10年ぶりにカラオケをした。
参加していたろう者は、それぞれ持ちウタというのがあって、音声プロソディでなく手話のプロソディでうたうから観ていておもしろい。やはり、上手・下手というのはあって、上手な人には拍手喝采モノ。
参加者の中に「文京のお姐さん」と呼ばれている聴の女性の方がいて、この方の声による歌とろう者の手話によるウタの、息のあったカラオケは、まさに「聴文化とろう文化のコラボレーション!」を思わせた一瞬であった。
ろう者のカラオケの楽しみ方はいろいろ。ろう界で有名なろう者の話し方のクセを真似たウタをうたって誰なのかを当てさせる、オリジナルの歌に手話的間奏曲をつけて盛り上げる、下ネタをおりまぜる…等など。
「ろう者のカラオケ」は、やはり観て楽しめるものだからこそ、成り立つのだと思う。音楽を聴いて楽しもうというろう者はいない。聴く音楽にあわせた手話歌はおもしろくないけれども、観る音楽にあわせた手話ウタ(=ろう者のカラオケ)はおもしろい。そういうところをわからないと(=聴者的発想・聴者的音楽から脱しない限り)、真の意味の「音楽における聴文化とろう文化のコラボレーション」は生まれないだろう。
(2006.12.27)

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