カテゴリー「ろう者の言語・文化・教育を考える(No.068~)」の15件の記事

2007/05/14

No.083 ■指さし

人に対して指さしてはいけないと子どもの頃に注意された、という経験はほとんどの人がしていることではないだろうか。

私も子どもの頃、指さしてはその手を親戚の人たちに払いのけられたことがある。ろうの父母からは「指さし」で注意される、ということはなかったから、聴者に対しては露骨に指さしてはいけない、と学習した。

けれども、手話で話す以上、どうしても指さしを欠かすことができない。指さしは、手話においては、代名詞と文末代名詞の2つという機能をもつ。

見知らぬ人から突然殴られたという経験をもつろう者は多い。特に男性に多いようだ。ろう者同士で笑い話を楽しんでいたらパンチが飛んできた、ということか。原因は、手話の指さし。殴ったほうは、指さされて笑われたから、ということになるらしい。

そうしたトラブルがもとで刑事事件になることもある。だから、ろう者の中は、聴者に対してはむやみに指ささないように気をつけている人もいる。

ところで、聴者と手話で会話中に、相手が急に視線を外すので、何事かと思って、後ろのほうを振り返ってみると…自分が指さした方向を相手が見ていただけ、ということがよくある。そのときの指さしは、実物を指示するためではなく、代名詞(あるいは文末代名詞)なのだが…。

ろう者の手話文に比べ、聴者の手話文における指さしの出現頻度は低い。特に文末代名詞が抜けるため、聴者の手話文を見ている間に、主語や目的語が何なのかわからなくなることがよくある。

そう、指さしは、主語や目的語を区別する機能も併せ持つ。例えば、4歳のろう児は、主語と目的語を指さしで区別することができる。

(PT=指さしによる代名詞)
(-pt=文末代名詞。直前の語と音韻的に連続して表出される。主語と一致する。)

A児とB児2人の会話。ふたりとも女の子。C児(男の子)のことが話題になっている。

A児:PT1 PT3 好き-pt1。
B児:ほんと?
A児:うん。PT3 PT1 好き-pt3。ねえ(C児にふる)。
C児:…(生返事)

上のPT1は「私」に、PT3は「彼」に相当する。主語と一致する文末代名詞をおくことで主語と目的語を区別させる機能を4歳児がすでに習得していることがわかる。

日本語に訳出すれば、下のような会話になるだろうか。

A児:わたしね、Cクンのこと好きなの。
B児:ほんと?
A児:うん。Cクンもね、私を好きだって。ねえ、Cクン。
C児:…(生返事)

上の会話は、デフフリースクール龍の子学園に通っている子どもたちの、ほんとにあった会話である。(ちゃんとビデオに撮ってある)。聴児と同じような会話をしているのがわかる。それにしてもおませな女の子…だと思う。

(2007年5月9日発行)

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2007/05/09

No.082 ■「ほんまもん」のサービスって…

NHKの連続テレビ小説「ほんまもん」を覚えているだろうか。2001年10月から放映されたドラマである。「ほんまもん」は関西弁で、「ホンモノ」という意味。

私はJCBカードを持っていて、毎月JCBの情報誌が送られてくる。今月号の「JCBサービス改善レポート」では、「耳マーク」が紹介されていた。

「JCBサービス改善レポート」とは、JCBに寄せられる「お客様の声」をもとにサービスを改善していくというものだそうだ。

今回は「家族に耳が不自由な者がいるのですが、窓口などでスムーズに対応していただけないことが多いようです。JCBの窓口では、聴覚障害者への対応や配慮を何か行っているのでしょうか」というお客様の声があって、それをもとに、全国13ヶ所のJCBサービスデスクに「耳マーク」を設置したという主旨の文章が掲載されていた。

この「耳マーク」は、全難連(社団法人全日本難聴者・中途失聴者団体連合会)が1970年代に考案したもので、公共機関などの窓口等で表示板としておかれることが多い。

「耳マーク」の表示板には「耳の不自由な方は筆談しますのでお申し出ください」とある。

「JCBサービス改善レポート」でも、「聴覚障害をお持ちの方には口もとを見せてはっきり話したり、筆談などの応対をいたします、という意思表示をしています。」と書いてある。

日本語を母語として獲得した後に聞こえなくなった中途失聴者なら、筆談による応対でも大丈夫だろうし、音声日本語が少しでも耳から入る難聴者なら、口もとを見せてはっきり話してもらうことでより確実なコミュニケーションができることは容易に想像できる。

しかし、日本手話を母語とするろう者の場合はどうだろうか。ろう者の書記日本語の能力は一様ではない。用件をすらすらと日本語で書ける人もいれば、そうでない人もいる。ろう者の中には、筆談でも、書かれたことの意図がつかめない人もいるし、逆に、何をどう書けばいいのかわからずに困ることもあるという人もいる。

それなのに、サービスを提供する側は、耳の聞こえない人はみな同じ、と思って、「耳マーク」を設置し、口もとを見せてはっきり話したり、筆談すればいいと思っているようだ。

それでは、「ほんまもん」のサービスにはならない。

さらに…「JCBサービス改善レポート」では、末尾に「~(中略)の所在地、電話番号など詳しくはJCBホームページでご確認ください」とある。

「聞こえない人に『電話番号』を確認させるの? JCBさん」といいたくなる。ちなみに、ホームページで確認してみたら、記載されていたのは電話番号だけで、ファクス番号やメールアドレスはなかった。

さて、「ほんまもん」のサービスを提供してくれるのはいつのことになるだろうか…。

(2007年4月23日発行)

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2007/04/23

No.081 ■聞こえるようになりますよ

韓国の歴史ドラマ「チャングムの誓い」の後半、鍼治療の場面がよく出てくる。

私も小さい頃、鍼治療を受けたことがある。ただ、日本の鍼治療は古代中国の鍼をお手本に独自の発展をしたものだそうだ。

両手足の指や指の付け根に鍼を打たれ、耳の後ろにも頭のてっぺんにも打たれた…と思う。小さいときの記憶なので思い違いもあるかもしれないが、「チャングムの誓い」のように鍼を打ってすぐに抜くのでなく、半時間はそのまま放っておかれたような気がする。

何のために鍼治療を受けたのか。ズバリ!「耳が聞こえるようになるため」である。

「チャングムの誓い」を見終わった後、「私も鍼を打たれたよね、聞こえるようになるからとか言って。2時間もかけて病院に行って。ただ痛いだけで。手や足に鍼を刺されたまま長時間じっとしなければならなくって、ほんま、しんどかったよ」と言うと、意外なことに母が「ごめんね」というのではないか。

私の鍼治療に関する真相はこうして暴かれたのだ(!?)。

私は、父方の祖母が両親に鍼治療を唆していたとずっと思い込んでいた。というのも、祖母が怒ったような顔をして私を病院に連れて行ったから。

しかし、鍼治療を始めようといったのは私の母だったことが先日、判明。私の母の友人(ろう者)の子どもが鍼治療を受け、聴力がよくなったという話を聞いた母が私にも…ということらしい。

そして、その鍼治療に一番反対していたのが…なんと父方の祖母と伯母だった。「聞こえるようになってほしい」と熱望している祖母の仕業と思い込んでいた私はその話を聞いてビックリした。

「鍼治療をしたって聞こえるようにはならないのだから、無駄な努力はやめなさい」と言っていたそうだ。どうりで鍼治療は数回で中止になったし、祖母は怒ったような顔をしていたわけだ。

けれども、祖母や伯母がなぜ反対していたのか? 不思議に思っていると、父の話で謎が解けた。

父が子どもの頃、似たような例でだまされたことがあることがわかった…。父の家にひとりの男がやってきて、「私がこの場で大蛇を書いてみせます。そうすれば耳が聞こえるようになるでしょう」と言って、大金を祖父からまきあげたそうだ。

父の目の前で描かれた蛇は、たいへんな迫力があり、蛇の絵を飾っておくだけでも効果がありそうに思われた、とのことだそうである。しかし、何日たっても聞こえるようになる気配はまったくなかった。

そういうことがあって以来、「聞こえるようになりますよ」という文句は、お金を騙し取るための巧みな話術にしかすぎない、ということを祖母や伯母は肝に銘じたそうだ。

父のときは「蛇の絵」で、私の場合は「鍼治療」。

そして、現在、「人工内耳」がその道具になっているというのは言いすぎ?

(2007年4月16日発行)

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2007/04/17

No.080 ■「耳が不自由な人」と「ろう者」

 だいぶ前の話になるが、所用があって北九州に向かったときのこと。私はマイレージの関係でJAL(日本航空)をよく利用している。だが、先日は先方の都合により、新参航空会社のひとつであるスターフライヤーに搭乗することになった。

(スターフライヤーのことを『星を揚げる人』と思ったのは私だけ? このフライヤーは、flyerのほうで、fryerではないのね…)

スターフライヤーのチェックインコーナーで搭乗券を発行してもらったときのこと。カウンターの受付員が「大変、失礼ですが、お耳が…」と書いているのが上から見えたので、「ろう者です」と書いてみせた。すると、メモを読んだ受付員は「初めて見た!」といわんばかりの顔をしながら、「耳が不自由な人のことですよね」と言いたげに自分の耳を指さしてきた。

「ろう者」という語を聞き慣れていない人がこの世にはたくさんいるのだ…ということを再認識した。

「ろう者」のことを「蝋人形」「老人」のことと聞き違える人もいるし、「ろう協会」に至っては「老人の協会」や「老人のための教会」、ひどいのになると「蝋に関する協会」と勘違いする人もいる。

スターフライヤーだけの問題ではない。どの航空会社にも共通していえることだが、ろう者のことを「耳が不自由な人」として捉え、「聞こえに問題がある人々」というマイナスの見方を持ったまま、サービス業に従事していることになっている。「手話を第一言語として話す人々」という発想はまったくないようだ。

ちなみに、JALでは「簡易筆談ボード:耳や言葉の不自由なお客さまのために機内に簡易筆談ボードをご用意いたしました。」とウェブサイトに書かれてある。

ANA(全日空)のウェブサイトでは、一例として「ご予約の際には、下記の内容をお知らせください。・聴導犬をお連れですか?・緊急時などのお知らせがございますので、あらかじめお耳が不自由な旨をお知らせください。」がある。

かろうじて及第点をあげられるのは、意外にスターフライヤー。「盲導犬、聴導犬、介助犬をお連れのお客様:無料で機内にお連れいただけますので、ご予約時にお知らせください。」

聴導犬に関しては、ANAやJALが「耳の不自由な方へ」となっているのに対し、スターフライヤーは「聴導犬をお連れのお客様」と表現している。

些細なことかもしれないがそういったことは大事である。

耳の聞こえの問題に着目した表現でなく、例えば、「手話で話される方」「補聴器をご利用の方」「聴導犬をご利用の方」という言い方にしてもらいたい。

ちなみにどの航空会社でも、チェックインするたびに最後に決まっていわれる言葉がある。「何かお手伝いできることはありませんか?」だ。たぶん、マニュアルにそう書かれてあるのだろう。

先日搭乗したときのこと。いたずら心が出てきて、「手伝えることって例えば?」と書いてみたところ、「優先案内や点字サービスなどがあります」と、これ、マニュアル通り?に答えてきた。

マニュアル通りに対応するのは誰にでもできること。通訳業にもいえることだが、相手に応じて確実なサービスのできる人って意外に少ないのね。

(2007年4月9日発行)

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2007/04/09

No.079 ■<大丈夫>の使い方

言語が異なれば、その言語の各体系(音韻・文法・語彙)も言語毎に異なるというのはすでに常識になっていることだと思う。しかし、そのことは頭でわかっていてもつい…というのは誰でもあることのようだ。

先日、埼玉・所沢でミミリーグ(第5回全国デフバスケットボール選手権大会)が開催され、わが手話通訳学科の学生も実習生として手伝いに行った。

学生は、会場の準備、後片付け、誘導、旗振りやモップ掛けの他、T.Oの後ろで待機し、T.Oと審判の間で簡単な手話通訳をした。

しかし、私の場合、バスケットボールについては、ろう学校の体育の授業の時間で少しやったくらいで、T.Oといわれても何のことかさっぱりわからない。

ウィキペディア(フリー百科事典)によると、T.Oはテーブル・オフィシャルを略したもので、審判の補佐をし、試合を管理するための役員の呼称のことをいうらしい。T.Oは4人で構成され、コートがよく見渡せる位置に座ることになっている。

具体的に何をするかというと…スコアシートの記録、プレーヤーのファウル数の表示、スコアボードやストップウォッチ(試合時間の管理)、24秒計の操作などをする、となっている。確かに2階の観戦席から見ていても忙しそうにしていたな~と納得。

さて、ミミリーグでは、T.Oは待機のチームメンバーが担当することになっている。手話通訳学科の学生は、試合の間、T.Oの後ろでスタンバイしていたのだが、その中のひとりがたまたまバスケの経験者でスコアの付け方を知っていた学生がいた。

その学生は、T.Oが記入したスコアにミスを発見したので、<大丈夫?>と声をかけたが、そのT.Oは怪訝な顔をしながら<うん、大丈夫>と答えたという。それで、その学生はそのミスを指摘する機会を失ってしまった…そうだ。

日本語話者だったら「大丈夫ですか?」の裏に隠された意図(!?)を理解することができる。しかし、日本手話で<大丈夫?>に置き換えただけでは、相手にその意図を伝えることができない、ということをその学生は学んだ。

上の例だが、場合によっては、全然大丈夫な場面ではないのに<大丈夫?>と言うとは、からかっているのか、と誤解されかねない。

さて、上の場面で日本手話ではどのように言えばいいのだろうか。どんな手話の語を用いるか、というよりもどんなNMS(非手指動作)が適切であるかが重要になると思う。すなわち、「丁寧さ」と、相手に自分の間違いを気づかせる「促し」といった意味をもつ2つのNMSを用いることである。そのNMSに加えて、<スコア、間違い、違う?>や、<この数字、大丈夫?>といったような語を表出すればよい。

<大丈夫>という語は、基本語のひとつ。一般的にいって、専門用語より基本語のほうが意味範囲のズレが大きい。

通訳を養成する者のひとりとして、今回の学生の経験は、私にとっても基本に立ち返ることの重要性を改めて認識することができた。感謝。

(2007.4.3発行)

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2006/09/25

No.078 ■トイレに閉じ込められたら…

実は…スウェーデンのマニラろう学校を見学中、私にとって大きな大きな?ハプニングに遭遇しました。それは何かというと、トイレに閉じ込められてしまったことなのです。

トイレに入る時からいやな予感がしていたのですが、先に入っていたろうの赤堀さんが問題なく出てくるのをみていたので大丈夫だろうと高をくくっていたのですが、やはり予感はあたってしまいました。

そのときの様子を同行した岡さんが書いてくれたのがありますので、転載してしまいます。

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■ろう者トイレに閉じ込められる(岡 典栄さん)

ろう者がトイレに閉じ込められました。中にいるのは分っているのですが、聞こえる私にはどうしたらいいのか分りません。それで同行のろう者を呼んできました。

中で取っ手をガチャガチャやっているのが見えると、外からもガチャガチャやってみる。つまりこれで外にも人がいて、中に人が閉じ込められているという状況を把握している、つまり助けは近い、ということが中にいる人にわかります。

学校のろうの先生は状況を見るや、「中にいるのはろう、聴?」とまず聞いて、ろうと分ると早速用務担当の人を呼んでドライバーで開けにかかりました。

その間にドアは開いたのですが、本当はドアを押し気味にしてノブを回せばよかったらしいのです。足元に1センチでも隙間があれば、筆談ができたかも。ろう学校なのにねぇ。

そしてもともとそのドアは不具合だったらしいのです。ヤレヤレ。
そして中にいたのはトイレ運の悪い人。

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トイレ運の悪い人…というのは、実は私のことなのです。

中に閉じ込められているのは木村らしい、と同行の聴の人はわかったらしいのですが、為す術もなく、外からドアノブをまわして、中にいる私に「救援は近し」ということを知らせてくれるということもせずに、ろうの先生と談笑している赤堀さんを呼びに行ったらしいのです。その間、私はそのままこのトイレに永久に閉じ込められるのか…と冷や汗が(本当に)出てきて心臓もバクバクしてきました。

赤堀さんは、やはり「ろう者」でした。いの一番に何をすべきかわかっていて、ドアノブをまわしてくれました。目の前でドアノブが動いたときは、ほんとに生き返る思いでした。とりあえず、私の存在が外側のニンゲンにわかってくれたらしい、ということがこの時点で確定したからです。その間、わずか数分だったと思いますが、私にとってとてもとても長かったです。不可抗力の災害(大地震、飛行機墜落等)で死ぬのはかまわないと日頃から思っている私ですが、今回のような、トイレの不具合で死ぬのは…ですよね。

ろう者は、目の人です。耳の人ではありません。だから、今回のような、外側の様子が把握できない状況におかれたら、目の人であるろう者を安心させるために、まず何をすべきか…ということを、目の人は、目の人ならでの本能(?)で判断、行動できますが、耳の人はどうでしょうか?

ろう者とかかわりをもちたい、と思う聴者は、ろう者のもつ目の人ならでの世界観というのをまずシミュレーションできるように、想像力を豊かにすることも重要でないか、と改めて考えてみました。

例えば、ろう者だけがいる部屋のドアを「ノックする」ような聴者は、相手が目の人だということに思いが至らない想像力の低い人…ということになると思います。

目の人であるろう者も、ろう者がいかにして世界を構築しているかを、耳の人である聴者にPRしていかないといつまでも理解してもらえない、ということになると思います。つまり、相互にそれぞれの努力が必要…ということだろう、と思うのです。

(2006年9月18日)

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2006/09/18

No.077 ■北欧のバイリンガルろう教育を視察して

先月、北欧のバイリンガルろう教育を視察する機会に恵まれた。今回の訪問先は、デンマーク、ノルウェー、スウェーデンの3ヶ国である。

デンマークでは、1982年8月から1992年6月にわたって、あるろう児学級でバイリンガルろう教育プロジェクトが実施された。スウェーデンでは、1981年に採択されたスウェーデン政府法(※)によってろう児へのバイリンガル教育が不動のものになった。

2006年の今年、世界でもっともバイリンガルろう教育が進んでいるとされているストックホルムのマニラろう学校でも、その政府法採択25周年を祝う行事が開かれたという。

「バイリンガル(教育)とは日本手話と日本語対応手話のこと」と真剣に主張する人がいまだにいる日本と違い、北欧では、ろう児が特別な努力なしに自然にインプットでき、母語となりうる手話を第一言語として、第二言語はあくまでも書記言語によるものと解釈されている。

今回私たちがたずねたろう学校はどこでも「シムコムはろう児に無用の混乱をもたらすだけでメリットはない」という認識が教員の間で徹底しており、かねてからいわれている「手話は言語である」ということの本当の意味がわかっているようであった。

1982年に始まったバイリンガル教育を受けた子どもたちは、いま成人していて、幸いにもその人たちと実際に会って話をすることができた。デンマーク手話はもちろんのこと、デンマーク語の読み書きに不自由することはないという。その上、英語もできるという。さらにドイツ語、スウェーデン語も読むほうは問題ないらしい。(スウェーデン語はデンマーク語に近いから、この2つができてもバイリンガルとはいえないのではないかという意見もあるが、デンマーク語ができなければスウェーデン語を読むこともできないのだ。それにデンマーク手話とデンマーク語の両方ができるのであればそれでもう十分にバイリンガルではないか。)

北欧のろう教育関係者は、とにかく、手話を母語にすることの重要性をよく知っている。バイリンガル教育が成功するかどうかは、第一言語である手話をどのくらい大事にするかによって決まってくる、ということだ。

1990年代後半、乳幼児への人工内耳適用が本格的に始まったが、数年前までは、北欧でもそういった人工内耳をつけた子どもたちに対して楽観的であった。「人工内耳をつけたからといってバイリンガルろう教育からその子どもを排除すべきではない。人工内耳をつけてもろう児であることは変わりないのだから、手話という言語環境を与え、読み書きだけでなく話し言葉へのアクセスが可能になるようにすべきだ」というようなことがいわれていた。

しかし、今回の訪問で、状況が激変していることがわかった。デンマークでは、乳幼児への人工内耳装着率がほぼ100%に達し、その上、手話を第一言語とするバイリンガル教育は、人工内耳の効用(効果)が低くなるとして、医師は親に手話を用いないように助言し、親も人工内耳を積極的に選択しているという実態があるという。(結果的にろう学校に入る子どもたちの数が激減しているという…)

最先端医療としての人工内耳のハイテク化が進んでしまった結果、人工内耳をつけた子どもに手話を母語として話せるよう保障しておき、その上で話し言葉(聞く、話す)も、といった悠長なことはいっていられなくなった、というのが実情のようだ。要するに人工内耳のハイテク化が進めば進むほど、手話は邪魔な存在になってしまったのだ。

北欧のろう学校で見た人工内耳をつけた子どもたちの印象はというとなんだかおとなしい…という感じである。発音はもしかしたら聞こえる人と同じようにきれいに話せているのかもしれない。しかし、人工内耳の効果が高い子どもほど手話の能力はおしなべて低いように思えたし、それよりも、元気というものが感じられず目の焦点が合わない人工内耳の子どもが多いことが気になって仕方がなかった。

ひるがえって日本は…というと、北欧からバイリンガルろう教育に関する情報はたくさん入ってくるというのに、「本物の」バイリンガル教育を実践しているろう学校はいまだに皆無…。ろう学校の先生たちが使っているという「手話」はシムコムのことだし、それも日本語獲得のための道具という認識であることが多い。

日本は、バイリンガル教育を経験しないまま、人工内耳をつけた子どもたちとむきあっていくことになると思うが、たぶん、抵抗なくそれは受け入れられることになるだろう。なぜなら、現在の日本のろう教育はそれ自体がいまだに口話主義の思想をひきずっているからだ。

その日本と違い、「時代は逆戻りしてしまった…」と北欧の、バイリンガルろう教育に携わる人々は悲しそうに言っていた。

1990年代から日本から研究者、視察団が何度も北欧に足を運んでいるにもかかわらず「変化への努力」をしていない日本。そうした中で、デフフリースクールだけが気を吐いてがんばっている。

北欧では、バイリンガルろう教育をさらに推進していくために、人工内耳とどうむきあうのか、どのような戦略がとられるのか、これからも注意深く見守りながら、日本におけるバイリンガルろう教育が、フリースクールという枠でなく、公教育(政府の責任であるいは肝いりで)で1日も早く実現できることを願ってやまない。

※スウェーデン政府法(1981年採択)
 政府のインテグレーション委員会は、重度のろうの子どもは子ども同士間と社会内で機能するためにバイリンガルでなければならないと指摘する。委員会によると、ろう児のバイリンガリズムとは、視覚・身振りによる手話と、ろう児をとりまく社会の言語すなわちスウェーデン語を身につけなければならないということである。(「日本聴力障害新聞」から引用)

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2006/06/19

No.076 ■7時ジャストに出てきたreikongさん

私の勤務先、学院・手話通訳学科では2年生になると課題がどっと出る。2年生の課題の量に比べたら、1年生は、「試験対策だ、レポートだ」と騒いでも(?)まだまだ少ないほうである。

2年生の場合、レポートだけでなく、授業までにビデオに収録しておくという課題が多い。中には4時限の授業が終わって、翌朝の授業までに収録というのもあって、寮生の中には夕食を寮で食べてから学院に戻る子もいるし、通学生はコンビニで夕食を調達したりして、学院を追い出される時間(22時です)まで居残る子がたくさんいる。

さて、今回の話の主人公は…2年生のreikongさん。2時限の私の授業でビデオ課題にあたってしまったreikongさん、困った顔をしているので、「どうしたの?」と聞いてみると、明朝の授業までに提出しなければならないビデオ課題を今日中にやり終える自信がないという。というのも、某大学のノートティクがあって、今夜は都心まで出かけなければならず、収録する時間がないかもしれないという。

「明日は朝6時半頃に学院に来て、ひと仕事しておこう」とちょうど(心の中で)決めていたところだったので、「それじゃ、明日は7時にでも学院に来たら? 私もその頃は学院に出ているし、ほんとに来るのだったら、鍵を開けに下まで行くから」(※学生が自由に出入りできるのは午前8時からで、それまではオートロックされている)というと、彼女は、いわゆる「聴者的笑い」をしていて、結局、明日7時に彼女が本当に来るのかどうかはわからないまま、翌朝を迎えてしまうことになった。

本当に朝の7時に行くつもりでいれば、事前に連絡方法や時間等を確認しておく(鍵をあけてもらうために下までおりてもらうのだから)のは、ろう者のやり方なのかもしれない。

彼女は、本当に7時ジャストに学院にやってきたのだ。実は、私にはある予感があって、予定通りに6時半に出勤した私は、机の上にケータイを出しておいた。もしかしたら、彼女からケータイにメールがあるかもしれない、と思って。

私は、確かに「7時に」とは言ったが、これは、ろう者の「数字」好きの一例で(?)、実のところは「早朝に」という意味。極端な話、私が出勤する6時半でもいいし、7時半でもいいのだ。

彼女は学院の近くにアパートを借りているので、家を出るときにケータイにメールを入れるに違いないと思い、机の上にケータイを出しておいてスタンバイ。

ところが7時になってもケータイがブルブル震える気配がしない。7時を少し過ぎてもメールは来ない。「彼女が来るとしたら、7時半過ぎになりそうだな…」と思っていたら、彼女からメールが来た。

手にとってみると「先生、学校に来ていますか?」というメール。私はのん気に「うん、来ているよ」と返事。

私が学院に来ているかどうかを確認してから家を出るつもりでいるのだな、ろう文化的には合格だな~と、その時はそう思っていたのだが…送信ボタンを押した後、私はあることに気づいた。

「も・も・もしかして、もう、下に来ているとか…」。

ケータイを片手に慌てて5階から1階までを階段でおりると(エレベーターが動くのも8時からです)、案の定、reikongさん、腕を組んで、ドアの前で待っていました。

聞けば、7時にはもう来ていて、私が降りてくるのを待っていたのだそうだ。結果的に彼女を待たせてしまったことについては悪いことをしたと思いつつも、7時に来るつもりでいれば、なぜ、その少し前に確認のメールをしてこないのだろうか…と不思議に思ったり。

改めてreikongさんに「もし、私が出勤していなかったらどうするの?」と聞いてみた。そしたら「仕方がないと思う」という答え。そして、中に入れるまで外で練習したりして時間をつぶす、というのだ。「私が7時においでといったから、そうしたの?」というと、「う~ん…」と少し考えた後、「うん、7時においでというから、7時には来ていると思って…」。

そういうことがあったあと、授業でそのことを話題にし、みんなで軽くディスカッションしてみた。

結論…と言っていいかどうかわからないが…

聴文化では…先生が7時においでといった。自分が行くかどうかははっきり言わなかったけれども、翌朝、7時に行ってみた。(先生が言うのだから確実…?)もし、7時に先生が来ていなかったら、先生が来るまで待ってみる。少ししても来なかったら、先生に連絡をとってみる。もし、先生が寝坊したりして来ていない状況だったら、仕方がない…とあきらめる。(中には、事前に先生に確認してみるという学生もいたが少数派…)

ろう文化では…先生が7時においでといった。自分が本当に行くつもりであれば、時間と鍵をあけてもらう方法(連絡:学院に着く少し前にメールを入れるとか、先生が予定を変更して来れなくなったときの連絡方法)を確認しておき、行くかどうかまだ決めかねるときは、とりあえず、行くことになったときの連絡方法を確認しておく…。

些細なことでも、何かおかしいと思ったら、「文化の違いが反映しているのかもしれない」と考えることができるようになることが、通訳を養成する人も通訳をめざす人も必要なことかもしれない。

(2006年6月12日発行)

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2006/05/08

No.074 ■テレビ・コマーシャルのワイプ(手話通訳)

テレビのコマーシャルに手話通訳をつけているのはいまのところ東京電力だけだ。最近のコマーシャルをみていると、手話通訳を担当する人が交代したらしく、若いママさんという感じの女性が手話通訳をしている。「できるだけテレビ映えのしたきれいな人で手話通訳のできる人を」というのがみていてわかる。

ワイプ挿入の形で手話通訳がついているのだが、いつも思うのは「なぜ、手話のネイティブ話者であるろう者を起用しないのだろうか?」だ。

今回の手話通訳の女性も、ぱっとみただけで明らかに聴者だとわかる。手話がネイティブのそれになっていないからだ。手話の語順も明らかに日本語のそれに対応しているし、文法も音韻も不自然だということがよく観察しなくてもわかる。

テレビのコマーシャルの場合は、実際に放送される持ち時間の尺にあわせて何本か用意されると聞く。コマーシャルの作品は、事前に製作されるのだから、わざわざ聴者を起用しなくてもいいのではないか。

テレビ映えするきれいな女性であることが条件であれば、その条件にあう手話のネイティブ・サイナー(=ろう者)を起用すればいいのではないか。そして、放送時間の尺にあわせて、コマーシャルで伝えたいメッセージを手話でダイレクトに放送すればすむことではないか。放送テープに吹き込まれた日本語の音声にあわせて通訳するのではなく、コマーシャルで伝えたい日本語によるメッセージを手話に再構築して、尺にあわせて手話をすればいい。

そのほうが手話のユーザーであるろう者にインパクトを与えるし、コマーシャル効果も大になると思う。

手話ユーザーであるろう者に対して、情報を提供するのは「耳の聞こえる」手話通訳者だけだ、という発想はもう過去のものである。

アメリカやヨーロッパの一部では、同時通訳においてさえも、ろう者自身が手話通訳(例:アメリカ手話→国際手話、英語対応手話→アメリカ手話など)を担当することがよくある。やり方は工夫次第でいくらでもできる。

アメリカやヨーロッパにできて、日本にできないのは、おそらく「発想の違い」だろう。あるいは、ろう者に情報を発信・提供するのは、「耳の聞こえる人」だけの仕事だという固定観念にしばられているからかもしれない。

東京電力が自社のテレビ・コマーシャルに手話をつける。このこと自体はとてもすばらしいことだと思う。しかし、一歩進んで、ネイティブ・サイナーを起用するということがあたりまえという先駆的な感覚を持ってくれれば、会社のイメージはいっそうアップするに違いない。

(2006年5月1日)

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2006/04/24

No.073 ■運転免許の聴力制限撤廃、本当に歓迎していいのか?

4月14日、画期的なニュースが入ってきた。聴覚障害者の運転免許について、聴力制限が撤廃されるという。道路交通法を改正し、2008年からの導入をめざしているそうだ。

聴力制限が撤廃されるだけなら、もろ手をあげて大歓迎!といいたいところなのだが、毎日新聞や読売新聞のインターネット記事をよく読んでみると、どうも単純に歓迎していいもの…ではなさそうである。

聴力制限を撤廃する代わりに「大型ルームミラー」を取り付ける。これについては異議はない。ワイドルームミラーを取り付けるろう者ドライバーは多いからだ。私の場合、愛車(ちなみにBMWのMINIです)の美観をそこねるので、ワイドルームミラーは付けていない。それで困る、ということはない。

ろう者ドライバーがワイドルームミラーを付けるのは、死角をできるだけ少なくしたり、後ろの道路の状況を確認するためだけにでなく、後ろのシートのろう者と手話でおしゃべりするのに必要だからだ。

私の場合はそういう高度なテクニックはできないから、運転中はもっぱら黙っている。

問題なのは、ステッカー表示を義務付ける点。他の車両がクラクションを鳴らさないための配慮からって…これこそありがた迷惑。それはまだしも、個人の情報を守るという観点から、ステッカー表示を義務付けると、「私はろう者です」という情報を周囲に宣伝?してしまう結果になるのは問題になるのではないか? ステッカーを貼った車の後を悪意のある人につけられ、犯罪のターゲットにされるという可能性もあるというのに。

ろう者はみかけ上、聴者と何ら変わりない。だから、周囲の人にそれとわかるように服にバッジをつけてはいかが?といったような話が、ろう者に無理解な、善意の固まりの聴者から時々出るが、今回のステッカー表示義務もそれと同じ問題を含んでいて、多くのろう者ドライバーはこのステッカー表示の義務付けを受け入れられないだろう。

3つ目は、聴覚障害者ドライバーを対象にした安全講習の義務付け。免許更新のたびに聴覚障害者専用?の安全講習を受けなければならないのは、ろう者ドライバーにとってこれまでにまして負担増。

聴力制限撤廃は、世界的動向として当然のこと。車社会の先進国では、ワイドミラーの取り付け義務だけで聴力は不問としているところが多い。それなのに、なぜ、日本だけステッカー表示を義務付けるのか?

ステッカー表示義務付けのことを世界ろう者連盟(WFD)に報告してほしい。おそらく、WFDからは「クレイジー!」という反応が返ってくるに違いない。

聴力制限撤廃に伴う諸々の義務付けは、ろう者ドライバーのクルマ生活における快適指数を格段に下げる。

単純に歓迎していいものではないと思う。ろう運動団体はちゃんと対応してほしい。

(2006年4月17日)

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2006/04/17

No.072 ■察する文化と言語化する文化

私の勤務先である国立身体障害者リハビリテーションセンター学院は6階建てで、手話通訳学科は5階にある。その5階の倉庫室(別名コピー室)には事務室管理のコピー機がおいてある。

そのコピー室の電灯が切れてしまったので、電灯を交換してもらおうと思って、同僚のI先生に聞いてみると、1階にある事務室の学院係長に言えばOKだという。そうすれば、係長のほうからセンターの担当部署につなげてくれるとのこと。

Eメール普及前だったら、I先生に電話をかけてもらうところだが、インターネットの普及した今、Eメールを使って係長に連絡すればすむこと。そう思ってメールの文章を書き始めたのだが、自分の書いた文章を読み返してみて、「本当にこれでいいのか…?」と心配になり、I先生に確認したら、案の定…だった。

私が最初に書いたメール文章は下記のとおり。

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倉庫室(コピー室)の電灯が2本切れましたので、交換してもらえるよう担当部署に連絡していただけますか。よろしくお願いします。
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I先生に助言をもらって書き直したのが下の文章。

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倉庫室(コピー室)の電灯が2本切れましたので、よろしくお願いします。
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後者の文章をもし日本手話でやったのならば、頼まれた相手は「だから、何?」とかえってくるに違いない。だから、日本手話では、相手に何をしてほしいのかを最後まで言語化する(つまり、最初のメール文章のように)のだが、日本語ではそこまでいわずに(つまり察してもらう)書くのがスマートらしい…。

そういえば、手話通訳学科の学生も、手話で話しているけれども、最後の最後までいわないことが多いような気がする。最後まで言わないで、先生に察してもらおうとするのは、第一言語の日本語が干渉(影響)しているからなのか…?

先日も、メーリングリスト担当の学生にケータイに一斉にメール配信できる急ぎ(緊急)用のメーリングリストを開設し、メルアド等の管理をするよう指示したところ、「通常のメーリングリストのほうも…」と手話で言って、最後まで言わない。そのときなぜか私の頭は日本語にスイッチしてしまって、もしかして「担当しなければならないのか」と言いたいのかと気づいた(=察した)のだけれども、悲しきかな(?)、「それで、何?」と手話で聞いてしまった。学生のほうは慌てふためいて「担当するかしないか…を確認したいのだけれども」と弁解するようにいった。

場面変わって、書類の不備が見つかり、差し替えが必要ということになって、差し替えるための書類を作るのは誰なのかを確認しないまま、係長は階下に行ってしまった。

一種のかけひきである。事務室に電話をしてみた。そのときは手話通訳を介してである。私としては差し替えの書類を係長が作ってくれるのならそうしてほしいが、私が作ったほうがいいのならそうするという立場。手話では「先ほどの書類の件だけど、あれって私が作ります?それとも係長が作ります?」と言ったところ、通訳者は「私が作りますか?係長が作りますか?」というようなことを言ってしまった。

そのやりとりをそばで聞いていたⅠ先生が「う~ん、いまの言い方じゃ、係長が作れっていうようなものだよ」と。日本語では、「先ほどの書類の差し替えの件だけど、差し替えるのは…」というあたりか…。

日本手話ってストレートな言い方だけしかできない、と思われているようだけれども、遠慮した言い方もあるのだということも知るべき。しかし、今回のような、かけひきが求められるような場面での、遠慮した手話での言い方もまさに手話的。

(2006年4月10日)

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2006/04/10

No.071 ■「一緒になりたい」って?

先日、とある手話講座の打ち上げ会に参加してきた。

この手話講座は、ナチュラル・アプローチで日本手話が教えられているのだが、学習者にとって、日本手話で話すとき、第一言語である日本語の影響を完全に除去するのは難しい。いわゆる第一言語の干渉現象がおきてしまい、学習者は試行錯誤しながら、その中間言語(第一言語の干渉が起きている状態の言語)を意識しながら、その除去に努めたりしている。

さて、その打ち上げ会で、受講生のひとりが4月に結婚することになることがわかり、彼女に結婚にまつわるいろいろな質問が集中した。この彼女のことをウメさんとしておこう。

打ち上げ会には私を入れて、ろう者が4人参加していて、私以外の3人は既婚者あるいはバツイチ。手話学習者はウメさんを入れて、7人。つまり、11人が打ち上げ会に参加していた。

交際期間は? 新婚旅行はどこ? 挙式場所は? お相手とのなれそめは?など等いろいろな質問が乱れ飛ぶ。聞くのはなぜだかみんなろう者ばかり。ウメさんと親しくしている子(高校生からの友人)もろう者の質問に答えるウメさんの話を聞いて「へえ~」と目を白黒させている。

もしかして、聴者って、月に数回しか顔をあわせない受講生同士だと、上のような質問ってあまり不躾過ぎるのかな~と思ったり…。

そして、いよいよ核心の質問?がウメさんに。

ろう者「どっちから求婚されたの?」
ウメさん「むこうから」
ろう者「うわ~! プロポーズのことばは何て?」
ウメさん「『一緒になりたい』って」
ろう者「??? 結婚したいって意味?」

上記会話はもちろん日本手話で、である。それをそばで見ていたバツイチのろう者はぽつりとこういった。「一緒になりたいっていわれてもピンとこないねえ…。何を一緒に?と言ってしまいそう。どうして聴者はこれがプロポーズってわかるのかしら…?」

打ち上げ会に参加していたろう者は、私以外全員結婚しているかバツイチ。何を言ったのか(言われたのか)聞いてみた。すると、昔のことで忘れたというひとりをのぞき、「結婚してください」とやはり、ストレート…。

ろう者の日本手話によるプロポーズののことばはやはり言語化していて結果的にストレート? 聴者みたいに気の利いたプロポーズのことばはないのかもしれない。しかし、私は思う。もしかしたら、日本手話的に気の利いた、カッコイイプロポーズのことばは、データ化されていないからみんな知らないだけであって、本当はあるのではないかと。

日本手話によるプロポーズのことば集(もちろん動画で)のサイトがあってもおかしくはないのかも。

(2006年3月20日)

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2006/03/06

No.070 ■深い谷 ~日本語対応手話と日本手話~

私のろうの友人の経験を紹介しよう。

役所の障害福祉課で手続きをしようとしたところ、対応した職員がたまたま手話のできる人だった。しかし、その職員の手話はいわゆる対応手話(日本語対応手話)で、顔も無表情。手話の文法を担うNMS(非手指動作)のほとんどが顔の表情で示されるのだが、顔が無表情であるということはNMSを操れていないということになる。

友人は手話で用件を伝えたが、職員が何を言っているのかよくわからず、もう一度話してもらうよう頼むと露骨にいやな顔をされてしまったという経験を持つ。話の通じない人を相手にしてしまい、面倒なことになってしまったというような態度がその職員にはっきり出ていたとのことだ。

ろう者に通じない手話をしている職員のほうが悪いのに、なぜろう者である自分のほうが低姿勢でいなければいけないのか、抗議しようにも自分が正しい手話を使っていると錯覚している相手に自分の手話では通じないし、なんだか悔しくなってしまった、とその友人は言っている。

似たような話はたくさんある。「だから、~でしょ(~でしょう)」をろう者に平気でいう聴者(手話通訳者、手話学習者、ろう学校の先生等)には注意が必要。この人たちは自分の手話のほうに問題があるとは露にも思わないというようなことがある。

自分の対応手話が相手(ろう者)に通じていないのに、表面上は通じているような場合が一番厄介である。

ろう者は、相手の聴者の対応手話を自分の都合(=解釈)にあわせてメッセージ内容を再構成してしまいがちなので、表面上では通じ合っているようにみえる。ところが、後になって通じていないことがわかると、「だから、私、言ったでしょ」と文句をいう対応手話の聴者がいる。

「だから、私、言ったでしょ」とまでは口にしなくても、相手(ろう者)の手話能力を疑ったり、低くみてしまうことがあるからだ。

日本語対応手話の話者(ほとんどが聴者)と日本手話の話者(ほとんどがろう者)の間に、通じあっているようにみえて実は通じていないという事実。なぜそういうことが起きるのだろうか?

1番目の原因に、日本語対応手話話者が日本手話の言語的構造を本質的なところで理解していない、ということがあげられるだろう。聴者の手話とろう者の手話は違うのね~ということは認識していても、深いところで理解しきれていないのだ。

2番目の原因。ろう者側の、聴者に対する過大評価と対応手話によるメッセージの内容がわからなくてもそのメッセージを自分流に再構成をしてしまうというクセがあるからではないか。相手の言っていることがわからないときは素直に「わからない」と言う習慣が長年のろう教育で身につける機会がなかったからだ。

つまり、口話教育を受けてきたろう者は、相手の言っていることを少ない情報(口の動きやメッセージが発信されたときの背景等)で解釈しようとしてきた。メッセージを自分の都合や解釈にあわせて再構成してしまうということを無意識に行なう習慣を身につけてしまった。素直に「わからない」といおうなら、先生や親に「わからないの!?」と怒られてしまう。だから、何を言っているのかを自分なりに少ない情報で解釈するという行為を繰り返してきた。この延長上として、対応手話話者に対してもメッセージの再構成が行なわれているのではないか。

深い谷から脱するにはどうしたらよいか? 答えは簡単である。聴者は日本手話を学び、ろう者は自分の都合による対応手話のメッセージ再構成行為を自覚し、それを回避することだ。

しかし、その簡単なことがなかなかできないから、深い谷はいつまでも深い谷のまま…。

いや、いつの日か深い谷から脱することができるのだ、と信じてこれからも私なりにメルマガやブログでメッセージを発信していこう。

(2006.2.27)

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2006/01/16

NO.069 ■電話(通訳)は難しい…

久しぶりにろう者から電話をもらった。ケータイが普及した現在、ろう者から電話をもらうということは少なくなってきたのだが、今回は急ぎの用事ということでろう者から電話があった。

ろう者が直接電話に出るわけではない。もちろん、手話通訳を介しての電話である。だが、今回の手話通訳の方は、電話通訳をしたことがなかったらしく、主体のろう者の名前でなく、自分の名前を告げたため、電話を受けた同僚が「○田さんっていう方からの電話だけど…」という。そのろう者からは事前に「これから電話するよ」とメールを受けていたので、もしかして電話通訳の人?と思いつつ、こちらも電話を代わり「木村です、○田さんですか?」とわざと確認すると「ハイ、そうです、○田です」と答えるのではないか。2、3度同じことを聞いてようやく相手も気づいたらしく、やっとろう者の名前を言ってくれた。

私が電話をするときは研修生に電話通訳をしてもらうのだが慣れていないとほんとうに難しい。

クレジットカードやキャッシュカードに関するような電話では、カード本人であることを確認されることが多い。初めて電話をかけるところでは自分がろう者であることを断ってから手話通訳者を介しての電話であることを説明していたのだが、クレジットカード会社や銀行の場合、多くが通訳者の名前を聞こうとする。新米の研修生は、そのことを通訳せずに自分の名前を言ってしまうという失敗をすることがある。そのため、その会社や銀行から私にでなく研修生にかかってくるので、私が目の前にいるのにその電話に応じられないということが何度かあった。

以来、電話通訳に関しては、いろいろ試行錯誤を重ねながら、自分なりに決めていることがある。


・電話をかける前に通訳者に用件の概略を説明しておく。

・自分のことを知らない相手にかける場合、電話通訳を介していることを知ってもらったほうがベターだと判断したのみに通訳者の存在を明かす。

・その場合において、相手から通訳者の名前を聞かれた場合は、電話をかけているのは自分であることを説明し(主体性が自分にあることを理解してもらう)、通訳者の名前はいわない(いわせない)。

・その人の通訳技術からみて同時通訳が難しそうな場合は、用件や電話の意図をあらかじめ説明し、通訳者に電話してもらう(逐次通訳のような形で)。複雑な内容の場合は同時通訳のできる人に電話通訳をしてもらう。

・相手が自分のことをよく知っている場合、通訳の技術が未熟な人にも電話通訳をしてもらって、電話通訳のスキル向上に努める。


電話は相手の顔がみえないだけに、電話は嫌い、苦手だという聴者はいるらしい。でも、手話通訳をめざす人はそういうことを言っていられない。スマートな電話通訳ができるには苦手意識を克服してもらわないと…。

ろう者はろう者で、ろう者になじみのうすい電話文化というのを勉強しておかないと、電話を使いこなせない。それは電話通訳をする手話通訳者を使いこなせないという意味にもなる。

新米研修生にとって、私の「電話(通訳)、頼むよ~」の一言は聞きたくない(見たくない)らしい。でも、私は今日も手話で言う「電話、頼むよ~」。

(2006.1.12)

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2006/01/09

No.068 ■昨年の漢字は「愛」でしたが…(天声人語)

昨年の世相漢字は「愛」。

これは、財団法人日本漢字検定協会が毎年全国から公募して決定しているもので、昨年は85,322人の応募があり、うち4,019人の応募により一位となった「愛」に決定したということだ。

2005年は「愛」の必要性と「愛」の欠乏を実感した年といえるのかもしれない。

「愛・地球博」「清子さんのご結婚」のような「愛」をテーマにしたものがあった一方で、子どもを狙った殺人等、手口の残酷な事件も多くあった。また、親の子どもに対する「無償の愛」はいったいどこにいったのかと思わされるくらいに子どもへの虐待行為が増えているという昨今、まさに「愛」の欠乏を実感した一年ということになるかもしれない。

そうした中、朝日新聞の天声人語で2度にわたって手話が取り上げられたのをご存知ですか。長くなるが一部引用する。

2005年12月1日:天声人語(朝日新聞社)右の手のひらを、胸のあたりで下に向ける。そして水平に小さく回す。手話で、「子ども」を表す手の動きの一つだ。頭をなでるようなしぐさからは、幼い命をいとおしむ気持ちまでが伝わってくる▼身長120センチというから、ちょうど手話で「子ども」を表す時の右手の下あたりの背丈になるのだろうか。学校からの帰りに殺害された広島市安芸区の小学1年の女子児童は、その体を折り曲げられ、家庭用ガスコンロを梱包(こんぽう)する段ボール箱に押し込められた姿で発見された。(以下、略)

2005年12月3日:天声人語(朝日新聞社)(~略)▼先日のコラムは、幼い子の頭をなでるようなしぐさで「子ども」を表す手話のことから書いた。九州からのお便りに、こんな一節があった。「『愛す』『大切にする』の手話は、円を描いた手の下にもう片方の手をそえます。寒い時、手の甲をこするように」▼幼い子のいる人もいない人も、手と手を合わせて、「守る目」をつくれないものだろうか。

子どもを大切にし、地域全体で子どもを守っていくシステムを作ろうという天声人語の主旨には賛成できるが、私はこの文を読んでかすかな違和感を覚えた。

かすかな違和感が何なのかを説明するのは難しい。だか、違和感を感じた文章はどの部分なのかをいうことはできる。「頭をなでるようなしぐさからは、幼い命をいとしむ気持ちまでが伝わってくる」という文章と「『愛す』『大切にする』の手話は、円を描いた手の下にもう片方の手をそえます。寒い時、手の甲をこするように」の2か所。

この手話を実際に用いているろう者は、手話の/子ども/が頭をなでるようなしぐさだと思ったことは一度もないだろう。手話を言語として話す人びとにとって、手話の/子ども/、/愛する/は既に語彙化しており、例えば、/子ども/を表す手話の動作は、天声人語で説明しているような「なでる」動きはしていない。

手話の/子ども/、/愛/の成り立ちについて説明し、「この手話のもつ優しさと同じように子どもを見守っていこう」ということを天声人語の筆者はいいたいのだと思うし、また、手話を知らない人がこの部分の文章を読めば「まったくそうだね」とほほえましく思うのかもしれない。

この天声人語の筆者は手話のことをおそらく知らない。今回の手話の例も、手話を習っている読者(=聴者)からのお便りから引用したものだろう。重要なことは、天声人語の筆者のこの視点は、現在の社会一般の、手話に対する意識、見方を表しているということだ。

手話というのは、結局のところ、音声語の補完手段であって即物的な表現でしかすぎないという捉え方が文章の隅々に表れているこの天声人語の著者は、手話を「語源」を通して見ており、「ジェスチャー、手振り、身振り」の概念でとらえ、そして、この人の視点が現在の世間の見る目を具現化しているのだといってもよいのかもしれない。

そして、始末の悪いことは、天声人語の筆者は悪意でこの文章を書いているのではないということだ。まさにハーラン・レインの「慈善の仮面」。

(2006.1.2)

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