カテゴリー「ろう者の言語・文化・教育を考える(No.101~)」の35件の記事

2009/04/16

No.135 ■手話通訳利用者への教育

 私は、定期受診などで通訳を利用することがある。通訳付きの診察に慣れていない医師は、対応に戸惑うようで、どうしても患者である私ではなく通訳者の方を見てしまう。そこで未熟な通訳者が医師を見つめ返そうものなら、その後は医師と通訳者の会話になってしまう。ろう者や通訳に慣れていない医師が通訳者に向って話しかけたとしても、通訳者の方で医師を見つめることなく"只今通訳中オーラ"を発していれば、次第に医師も患者であるろう者に向かって話をするようになるものだ。

 ろう者も、そのような状況になってしまったときには、そのままにせず、通訳者に対応の仕方を教えるなど、通訳者教育をしておくのがよい。本当は医師の方にも利用者教育をすべきところだが、ろう者から直接行うのは難しい。通訳中にさりげなく通訳者から利用者教育をしてほしいところだ。

 診察終了後、カルテや診察券を返されるときにも、通訳者が受け取ってしまわず患者本人に渡してもらうようにすべきだ。通訳者は付添い人と間違えられやすく、病院スタッフはどうしても通訳者に向って話をする。そのようなとき通訳者は、自分で受け答えしたり、相手の顔を見つめ返したりせず、さりげなく通訳者であることをアピールするとよい。ろう者側も患者は自分だということをアピールし、利用者教育をしていこう。

 医療場面の通訳利用は多いと思う。ろう者にも自立型と非自立型がいるだろうが、非自立型のろう者は、通訳者任せの受診になっていることが多いかもしれない。しかし、そのままでよいのだろうか。通訳者側からも、ろう者が主体的に行動するように働きかけをしてほしい。それは、通訳者からろう者への利用者教育になる。通訳利用に慣れていないのは、病院関係者など聴者だけとは限らない、ろう者もまた然りである。通訳を利用することに慣れるには、たくさん経験するしかないのかもしれない。


(日本語訳:chu) 

■このメルマガは、2009年3月23日にまぐまぐ!によって配信されたものです。

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2009/04/13

No.134 ■3パターンの日本語対応手話

 先日、千葉で開催された全国手話通訳問題研究討論集会に参加した。毎年恒例の冬の集会だ。夏の集会とは違い、冬の集会は討論形式で行われるので、結構参加者の手話を見ることになる。そこで聴者の日本語対応手話には3パターンあることに気付いた。

 そもそも、日本語を話しながら手話をするのは、ろう者と手話のわからない聴者双方にその内容がわかるようにとの理由があるらしい。ろう者は手話だけで話すので通訳が必要だが、聴者は声を出しながら手も動かせるから両方やっちゃえ!という考えが基本にあるのではないだろうか。実は、手話と日本語対応手話には大きな違いがあるのだが、それには目をつぶり、双方が同時にわかる(つもり)という便利さを優先している。

 理由はともかく、その日本語対応手話にも3パターンあるようだ。第一は日本語優先型で、基本は日本語で発言し、おまけのように適当な手話を付け足すもの。これが圧倒的に多く、表出される手話が不完全なため、ろう者にとってはきわめて理解しにくい。その証拠にろう者の頭は固定されたままだ。口型を読み取り、不完全な手話を手がかりに必死に内容を推測している様子がわかる。中には日本語対応手話に慣れているろう者もいるようで、たまーにうなずきが見られる。よくわかるものだと感心する。

 しかし、このパターンの日本語対応手話は普通のろう者にはわかりにくく、自分の意見を述べているのか、指示を出しているのかすら判別できない。その結果ろう者同士で内容を確認し合うことになる。まるでろう学校の再現だ。ろう学校時代は先生の口話がわからず、生徒同士で確認し合ったものだ。ちょっと手話が付くとはいえ、内容の理解にはほど遠く大層疲れる。

 第二はふらふら欠落型で、日本語と手話を並行しているかと思いきや、突然日本語がなくなったり手話がなくなったりするパターンだ。ろう者らしいマウスジェスチャーも付いたそれなりの手話をしているかと思えば、いつの間にか日本語対応手話になったりして、見ているほうが混乱してしまう。日本語部分を聞くと「市と交渉したが、市は"パ (認めないの手話と同時) "なので…」という具合で、日本語としては不完全だ。そのため日本語だけ聞いていてもわけがわからない。<認めない>の手話がわからなければ、手話を見ていても意味は理解できないだろう。双方によかれと思って使われる表現が、双方に理解不能の部分を作り出している。

 第三は途中消滅型。はじめははりきって日本語と手話を同時進行させていたのに、いつの間にか日本語が消滅し、手話だけになってしまうものだ。手話がなくなって日本語だけになると、ろう者から催促が入るので手話の方がなくなってしまうことはまずない。ろう者が同席していることを意識しているうちに手話優先になり日本語が消滅してしまい、司会者などから「声!」と指示されている場面をよく見る。それでも、この第三パターンは手話と日本語の違いを知っているからこそ陥るパターンではないだろうか。それに対して、第一パターンや第二パターンは、手話と日本語は同時発信できると信じて疑わない結果ではないのか。

 3パターンそれぞれ特徴があるにせよ、これらの日本語対応手話はいったい誰のために使われているのだろうか。はなはだ疑問であるが、日本語対応手話はろう者の目を疲れさせることだけは間違いない。


(日本語訳:chu)

■このメルマガは、2009年3月13日にまぐまぐ!によって配信されたものです。

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2009/04/09

No.133 ■困った手話通訳者3

 困った手話通訳者シリーズ第三弾は、通訳者の服装についてである。

 昔、手話通訳養成に関わり始めたばかりの頃、手話通訳者たちはおしなべて真っ黒な服を着ていた。手をはっきり見せるためのお約束なのだという。真っ黒い集団でまるでお葬式のようだと違和感を覚えながらも、そういうものなのかと思っていた。それでも同じように違和感を覚えたろう者の助言もあってか、最近では、紺やグレーも見かけるようになった。

 大会や式典などでは、やはり黒っぽいスーツが無難なのかもしれないが、もう少し柔軟でもよいのではないかと思う。定番の黒や紺に加えて、緑やグレー、落ち着いて上品な紫などはどうだろう。やはり通訳者にも服装のセンスが求められる。通訳者が身なりに無頓着だと、ろう者まで同類だと見られてしまう。少しはおしゃれをしてほしい。

 さて、困った通訳者の話である。なんと、ある大会でジャージにサンダル履きで通訳している人がいた。さすがに東京では見かけないが、地方では皆無ではないらしい。東京でそんなことをしたら、非難の集中攻撃を受け通訳人生は終わったも同然だ。しかし、地方では通訳者の人手不足もあって、ジャージにサンダル通訳がまかり通ることもあるらしい。大会などフォーマルな場所に普段着で出てきて許されると思っているのだろうか。

 また、結婚式に真っ黒スタイルはいただけない。お祝いの席なのだから、通訳者も少し明るめの格好をすべきではないか。TPOをわきまえた服装は基本だ。国リハの卒業生たちは、場に合わせて服装に配慮する努力を惜しまない。しかし、地方では、壁に溶け込んでしまうのではないかと思えるような通訳者もいる。

 一方、病院や学校など身近な場所での通訳にスーツで決めていく通訳者もいる。その場に集まっている人たちとかけ離れた格好では浮いてしまうではないか。その場に合わせて服装の程度を考慮すればいいのに、いつでもどこでもスーツか普段着という両極端では困ってしまう。

 通訳者の皆さん、ご自宅にTPOに合わせた通訳服を何通りか揃えているだろうか。服装ゴーイングマイウェイになることなく、場に合わせた通訳服でお出かけいただきたい。もう一言言わせていただくなら、ご自分の体形に合った服をお召しいただきたい。これは自分の体験から言えることだが、あまりにもぴちぴちの服を着られると手話をするたびに揺れる豊かな肉体の方に目がいってしまう。体形があからさまにならないステキな服装で通訳をしてほしい。

 通訳者はパフォーマーだ。音声言語通訳者も服装には気を使うという。人と人を結ぶ仕事をする通訳者は、派手にならず無粋にならず、その場にふさわしい格好が求められる。音声言語通訳者の方が派手な傾向はあるが、手話通訳の皆さんも、これからは是非、場に応じた服装ができるよう、センスを磨いていただきたい。

(日本語訳:chu)

■このメルマガは、2009年3月10日にまぐまぐ!によって配信されたものです。

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2009/04/06

No.132 ■CLってむずかしい

「CL」とは何かご存じない方も多いと思う。CLとは物の形や材質、大きさなどを表すものである。例えば〔OKのような手の形〕は、これだけでは非CL型の「お金」か「OK」なのか、CLの「何か丸いもの」なのかわからない。この手の形に動きや位置などの要素が加わると、CLか非CLかがわかるようになる。CLの「何か丸いもの」が頭に付くと「ハゲ」という意味になるし、身体の前面で上から下に数箇所つくと「ボタン」になる。同じCLであっても位置によって、服のほころび(穴)になったり、路上の穴になったりする。このようなCLを使った文が手話にはたくさん登場する。

 ろう者は手話を習得しているから、CLなど朝飯前だと思うが、意外に聴者には厄介な代物のようだ。

 分類は研究者によって違うが、CLには何種類かある。たとえば、〔ドアノブのような手の形〕(サス型)と、〔ドアノブのような手の形を回す〕(ハンドル型)があるが、CLだけであれば、それは「ドアノブのような形のもの」自体を意味し、それを回すと「ドアノブのような形のものを回して動かす」という意味になる。また、「包丁で切る」の表し方も、〔包丁の刃にみたてた手のひら〕(サス型)や、〔包丁の柄を握っている手の形〕(ハンドル型)の二通りのCLがある。さらに「車」や「人」を表す特殊なCLもある。

 しかし、聴者にとっては難儀なもののようで、「足を踏む」という簡単な表現でさえ四苦八苦する。ろう者は自分の脚を示して「脚」と言うが、聴者は、ご丁寧に〔人差し指と中指の2本の指を下に向けた形〕で「脚」を表す。「足を踏む」の「足」は先端の方だからと〔下に向けた2本指の片方の爪のあたり〕を右手で押さえるようにするなど工夫しているのを見かけるが、ろう者は自分の脚を指して、右手で「踏む」とか「踏まれる」と表現する。「踏む/踏まれる」はロールシフトで表す。

 動物編もある。さすがに「牛が寝ている」を<牛+寝る>とはやらないが、工夫の末か<牛>+〔指文字のタを倒す〕とやってみたりする。何のことかと目を点にしていると、牛のCLのつもりらしい。残念ながらその表現では何のことかわからない。<牛>+〔牛が伏している様子(ロールシフト)〕があって、おまけに〔指文字のタを倒す〕が出ればなんとかわかる。単独で〔指文字のア〕が出ても、その主語は何かわからない。ろう者はロールシフトとCLを組み合わせるという複雑な手話文を作るが、聴者には難しいのかなかなかできない。一部だけを取り出してできたつもりになっている。「ネコが車にひかれた」なども、<ネコ+〔走る(ロールシフト)〕+〔人差し指(ネコのCL)右から左へ〕+〔車(CL)人差し指にドン!〕+〔ネコパタン(ロールシフト)・・・〕>となる。<ネコ>+〔指文字のア〕はいただけない。

 聴者やインテ出身の聴覚障害者が教える手話は、ろう者の使う表現とはかけ離れたものになりやすい。CLの存在は知っているのだと思うが、構文が習得できていないまま、中途半端な指導をされるのは困る。自分で表出できなければ、ろう者の表現を撮ってそのものを見てもらう方が効果的だ。手話指導にあたっている方々に考えていただきたい。

 日本ではまだCLの研究は進んでいない。だからといって、自分勝手な表現を学習者に押し付けるのは止めていただきたい。またろう講師も、手話学習者の未熟なCLをそのままにせず、自らのCLを研究して指導にあたってほしい。『CL文法書』や『CLハンドブック』が早く出てこないものだろうか。

(日本語訳:chu)

(chuのつぶやき:にほんごでせつめいできることとできないことがあるんじゃ!とんちゃんのばか・・・)

■このメルマガは、2009年3月5日にまぐまぐ!によって配信されたものです。

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2009/04/02

No.131 ■言葉で表せない子どもたち?

 先日、読売新聞を見ていてあるろう学校の先生のコメントが目に留まった。読売新聞には「写真大賞事務局」があるそうだ。おそらく報道写真や人物写真等のコンテストをしているところだと思われるが、その事務局主催で「写真授業『見る・撮る・伝える』」という催しが、東京都立大塚ろう学校で行われた。小学4年生から6年生の児童を対象に、構図の決め方やカメラの扱い方などを教えるものだ。ろう児たちにいろいろな経験をさせるのは良いことだ。この写真授業をきっかけにカメラの魅力に目覚めた子どももいたにちがいない。

 しかし、見過ごせなかったのは、その授業を担当した教師のコメントである。「言葉で表せない子どもたちの気持ちが伝わってくる」という。

 ろう児たちは「言葉で言い表すこと」ができないというのだろうか。これがろう学校教師のコメントなのだろうか。ろう児たちは言葉を持たない動物と同じだととらえているのか。もしくは、言葉とは日本語であると考え、ろう児たちが使っている手話は言葉とみなさないということか。

 明晴学園の子どもたちは、手話という言葉で、それぞれの考えや心にあるものを十分に伝え合っている。大塚ろう学校の子どもたちも学校では口話を使っていても、教室を離れれば小さな手で手話をしているだろうことは想像に難くない。その手話でお互いに話が通じていれば、その手話は明らかに言葉ではないか。それなのに、言葉とは日本語(口話)だけという先生の勝手なものさしで、子どもたちは言葉を持たない子にされてしまったのではないだろうか。

 そのような先生はろう教育界にいてもらわなくてもいい。その先生のコメントを鵜呑みにしてそのまま記事にした記者も記者だ。どうにも腹に据えかねるので、自分のメルマガで言わせてもらう。「手話は言葉である!」

(日本語訳:chu)

■このメルマガは、2009年2月23日にまぐまぐ!によって配信されたものです。

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2009/03/30

No.130 ■困った手話通訳者2

 困った手話通訳者シリーズ第二弾では、自己リスペクト型の通訳者を取り上げてみたい。

 手話が通じないことをろう者のせいにする通訳者がいる。ウソではない、本当にいる。新しい手話をはじめ手話単語を片っ端から覚え、積極的に使っては満足しているものの、当のろう者はさっぱり理解できていない。すると、それをろう者の勉強不足のせいにする。または、目の前のろう者が理解していようがいまいがお構いなしに、日本語対応手話で一方的に通訳する通訳者。たしかに中途失聴者やろうあ団体の役員クラスとは通じるのかもしれないが、ごく一般のろう者がその通訳を理解できずにいると、ろうあ運動をしていないからわからないのだと批判する。または、ろう者に指図したり、ろう者の能力を過小評価しておせっかいをする。

 手話が通じないのは、通訳者がろう者の使う手話をきちんと習得していないせいだ。ところが、目の前のろう者の手話を見ようともせず、本や講習会の講師の手話こそが正しいと思っている。聴者慣れして自分と通じる聴覚障害者たちはエリートだが、普通のろう者は知識や情報量が足りないからと次第に指導者的ふるまいをするようになる。一言言ってやりたいと思うが、そうもいかない。

 他の聴覚障害者とは通じるのに一般のろう者とは通じなくて困ると言う前に、是非自らを振り返ってほしい。ろう者の手話をきちんと理解しているか、ろう者の手話をきちんと翻訳できているか、自分勝手な想像や注釈を付け加えてはいないか、まず自己の検証をしてほしい。通訳とは通訳利用者双方の橋渡しをすること、つまり、双方のやりとりを円滑に進めるための存在だ。偉ぶったり威圧的な態度で通訳をされては、ろう者は言いたいことも言えなくなってしまう。その結果通訳者が主導権を持つようになる。

 ろう者主体の行動を保障するためには、通訳者が自らの通訳を検証するという謙虚さが不可欠だ。手話の力や通訳技術を高める努力とともに、相手と通じないときの原因をまず自分の中に探す謙虚さがほしい。そうしないと、ろう者から煙たがられていることに気付かず自己満足で終わってしまう。ろうあ団体の役員たちにはかわいがられているかもしれないが、他のろう者にはどうなのか、いま一度考えていただきたい。

(日本語訳:chu)

■このメルマガは、2009年2月13日にまぐまぐ!によって配信されたものです。

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2009/03/26

No.129 ■困った手話通訳者1

 今回は「困った手話通訳者」と題してお話したい。このタイトルは今後も引き続き取り上げていきたいと考えている。

 まず、手話通訳の皆さんには日頃の活動に感謝申し上げる。決して皮肉ではない、心からそう思っている。それでもたまには目を覆いたくなるような通訳者と出会うこともないわけではない。

 当然ながら、通訳にあたってはそれなりの手話を習得していなければならない。ところが、手話の力が十分でない通訳者がいる。未熟なところは今後努力をしていただくにしても、そのときの発言がいただけない。「手話は心です。心があれば克服できます」と言う手話通訳者には困ったものだ。「心があるから、通訳場面で多少通じなくても目をつぶれ」とでも言いたいのだろうか。

 「心」が大切なのは言うまでもないが、手話が通じない通訳者に来られて不利益を被るのは他でもないろう者なのだ。それでも通訳者に「ごめんなさーい。手話、まだで、すみません」とにこやかに謝られては、ろう者側は「仕方ないよねー。これからもよろしくねー」と答えざるを得ない。通訳が通じないのは困ると本心をはっきり言えるろう者はほとんどいない。だからといって、通訳者が安心していてはいけないのだ。

 十分な技術を習得する前に通訳現場に行かされることもあるだろう。それは仕方がない。そのことについてとやかく言っているのではない。気をつけていただきたいのは通訳後の行動だ。通じないながらも四苦八苦しながら頑張って通訳を終えた後、にこやかに謝って去っていくのではなく、せめて通じなかったことを反省し、次回は克服しようと考えているという態度を示してほしい。

 「手話は心。手話は通じなくても心が通じればいいでしょ」とのたまう心持ちの良い通訳者はたくさんいる。ろう者蔑視や悪意で通訳をしているわけではない。一生懸命、真摯に通訳をしているのだと思うが、ろう者が厳しい批判をしないからといってそれに甘んじてはいけないのだ。

 手話通訳に取り組む皆さん、手話は「心」で通じるものではない。自分の未熟さを指摘されなかったことに甘えず、常に向上しようとする意欲がほしい。「手話下手ですみません」と何度言っても手話はうまくならないし、ろう者の不利益も改善されない。失敗をにこやかに葬ることなく、反省し克服していこうという気概を示していただきたい。

(日本語訳:Chu)

■このメルマガは、2009年2月11日にまぐまぐ!によって配信されたものです。

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2009/03/23

No.128 ■手話通訳をつければいいってもんじゃない!

 最近、ろう者の社会参加が進み、多くのろう者が働いている会社では、専用の手話通訳者を雇用しているところも増えている。大手の企業では20~30人のろう者が在籍しているところもある。そのようなところでは、朝礼やミーティングなどの際には話者の近くに手話通訳が立って通訳をしているのではないだろうか。一方、ろう者が数人という会社では、外部から手話通訳を呼ぶことになるが、その際の通訳者の位置はどうなっているのだろうか。

 私の勤務先である学院の入学式や卒業式などは、きちんと演台の近くに通訳者が立ち、手話通訳と話者の様子を見ることができるように配置される。しかし、それ以外の職員向けの行事では、通訳者の扱いがなんともお粗末なのだ。センターの聴覚障害の利用者向けの入所式や修了式でも、きちんと舞台の上に通訳者が立つ。センターにはろうと難聴の聴覚障害職員が3人いるが、私たち職員向けの行事の際は、いつも聴覚障害職員の指定席が設けられ、その近くに通訳者が置かれる。壇上に通訳者が立てば、私たちもどの席に座ろうが自由なはずだが、実際はそうではない。ろう者だけまとめた席を設けるというのはいかにも福祉的発想ではないか。本来は、どこからでも見える位置に通訳者を立たせて、自由に着席できるようにすべきだと思う。手話通訳をつけることは同じなのに、センターの利用者と職員の扱いに違いがあるのはなぜだろう。

 先日も、総長の年頭挨拶があった。ところが会場に入ってみると、手話通訳者が壁際に立っている。担当者から場所を指定されたのだという。しかたなく私たちは通訳者の近くに着席したが、総長が立つ壇上とは方向が違う。その席から通訳を見ていると他の職員のように総長の様子を見ることができない。これは差別ではないか。

 通訳者も指定されたからとか恥ずかしいからなどと言って、壇上に立とうとしないこともある。いったい何のための通訳なのだろうか。そのようなことを言っているからいつまでたってもろう者の扱われ方は変わらない。他の人たちと同じように好きなところに着席するには、通訳者は壇上に立たなければならないのだ。年頭挨拶を担当した通訳者もしきりに反省していたが、同じような場面はまだまだあるのではないだろうか。

 昔、世田谷区役所に入ったとき、聴覚障害職員の採用は私で3人目だったにもかかわらず、それまで手話通訳を手配したことはなかったという。初回の新人研修に手話通訳はなく、研修内容を知ることはできなかった。そこで、2回目の研修時には手話通訳を付けてほしいと希望した。予算の都合等もあり、世田谷区の登録通訳者に来てもらったが、研修会場では、一番前の席に通訳者と差し向かいで座らせられた。講師の顔を視野に入れることもできず、ひたすら通訳を見続けていた記憶がある。

 やはり、人の話を聞くときは、話し手の様子や雰囲気も見たいものだ。壇上の話し手の近くに通訳者が立つことは、ろう者にとって良いだけでなく、周囲の人々への啓蒙にもなる。特別な場合を除き、ろう職員が複数いるようなところでは、是非、壇上や話し手の近くに通訳者を立たせてほしい。通訳者も技術や恥ずかしさなど個人的な感情はこらえて、ろう者のためにと堂々と壇上に立っていただきたい。

(日本語訳:chu)

■このメルマガは、2009年2月6日にまぐまぐ!によって配信されたものです。

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2009/03/02

No.127 ■ことばの変化

 ことばは生き物で、新しく誕生したものの死語になってしまうものもあれば、長く定着するものもある。それは日本語だけでなく、手話もしかり、世界のどの言語も同じである。

 その証拠に、現在使われている日本語と昔の日本語は違う。平安時代に紫式部が書いた『源氏物語』の原文を見てもさっぱりわからない。同じ日本語とはいえ、意味がわからないので、現代語訳版が出されるのである。現代語訳も何人かが出しているが、明治時代に出されたものは、やはり明治時代のことばで書かれているため、今の人が読むとすこしわかりにくい。私はよく本を読むが、江戸川乱歩や横溝正史など昭和初期に書かれた推理小説は、今の日本語ではあまり見られないことばが使われていたりして、時代を感じる。

 同じことを言うにしても今と昔では違っていて、"素敵だ"ということを、昭和初期の頃は「ハイカラ」と言った。その後「いかす」ということばが使われ始め、石原裕次郎の登場と共に流行したが、今の若者には受け入れられないと思う。私が学生だった1980年代は「ナウい」ということばが使われたが、これも今はない。次いで「トレンディ」や「イケテる」などが登場したが、今後はどのようなことばが使われるのだろうか。

 手話も同様だが、手話は書き残すことができないので、残念ながら明治時代の手話を確認することができない。昭和に入ってからはわずかながらフィルムに残されているものもあるが、それらを見るとやはり時代を感じさせられる。アメリカのギャローデット大学には、昔の手話映像が保存されており、やはり今の手話とは違うことが確認できる。

両親と話をしていると、昔の語彙が使われている中に突然新しい語彙が登場し、逆に違和感を覚えることもある。<オーバー>という手話も昔の人たちは使わなかったものだと思う。「重量オーバー」とか「スピードオーバー」などでは使っていたかもしれないが、<派遣社員、解雇、オーバー>(派遣社員のきなみ解雇!)のような使い方はしていなかっただろう。ことば自体が変わることもあるが、ことばの用法が変わることもある。<オーバー>も新たな使い方ができたのである。若い人たちならまだしも、両親の手話の中に、新たな用法の<オーバー>が登場して面食らうわけだ。最近は米内山氏さえ使っている・・・。

このように手話も時代によってことばや用法が変化する。この手話の変化を研究している人はまだいない。だれか早く着手してくれないだろうか。

(日本語訳:chu)

■このメルマガは、2009年1月27日にまぐまぐ!によって配信されたものです。

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2009/02/23

No.126 ■テレビドラマの中のろう者

 最近、また手話・ろう者を取り上げたドラマが放映されている。TBSの昼ドラ「愛の劇場」の『ラブレター』である。11歳になるろうの少女が、児童養護施設から瀬戸内海の小豆島に住む里親に引き取られ、小豆島を舞台にさまざまなエピソードが展開していくものだ。主人公の少女時代から成人するまでを3人の女優が演じていくらしい。このドラマの"売り文句"は「手話で愛を語ることができます」だ。加えて「手話は喜怒哀楽すべてを表現することができます」という。改めて言うまでもないような当たり前のことではないか。手話は言語であると言いたいようだが、その言い方がどうもいま一つだ。

 そのほかにも腑に落ちない設定がある。主人公が育った児童養護施設が聞こえる子どもたちと一緒の施設だったのか、ろう児の施設だったのかはっきりしないが、11歳の少女はいったいどのようにして手話ができるようになったのだろう。仮に、ろう学校に通っていたのだとしても、小豆島では普通校にインテグレートしている。11歳以降を聴者の中で過ごした人が、成人ろう者と同じような手話を話せるようになるものだろうか。周囲にろう者がいない中で、どうやって手話の力を伸ばすというのだろう。制作側は手話はろう者が自分勝手に作り出す言葉だとでも思っているのではないだろうか。

 たとえば、イタリアのある小さな島に日本人の子どもが漂着したとしよう。運良く島の人に助けられ、そこで暮らすことになった。しかし、その島で成長した日本人の子は大人になったときそれなりの日本語を話せるものだろうか。言葉は年齢に応じた会話や経験を通して成長する。11歳で日本語の環境がなくなったら、自然に日本語は忘れ、現地の言葉を覚えていくだろうと考えることは容易だと思うが、なぜ手話だけは別格と思うのだろうか。

 つまり、このドラマの制作者は言語とは何たるかを知らないまま、手話は言語であると唱えているにすぎない。それでも手話を取り上げたドラマが放映されることによって、また手話に対する関心が高まるだろう。さしずめ、プラス・マイナス0(ゼロ)というところか・・・。

(日本語訳:chu)

■このメルマガは、2009年1月19日にまぐまぐ!によって配信されたものです。

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2009/02/16

No.125 ■ろう者に電話をかけること

 ろう者は自分で電話をかけることはなく、最近では携帯電話のテレビ電話機能やメールを使っている。中途失聴者の中には、自分で直接話し、相手の返答部分のみ手話通訳させる方法で電話をかける人もいるようだが、普通のろう者が自分で電話をかける、電話で話すことはまずない。

 今、我が家はFAXを使わなくなったため固定電話がない。そのため、連絡先として書ける電話番号がない。最近は、携帯電話の番号を書く人も多くなってきたようなので、携帯電話の番号を書くことにしている。もちろん、私の携帯電話は常に「留守番電話設定中」だ。実際に着信になっても、相手方の電話番号は残るし、誰かにメッセージを聞いてもらえるので、意外に便利な方法だ。それでも電話がかかってくるのは、1~2か月に1回くらいしかない。

 ろう者がろう者に電話をかけられるのは、双方に手話通訳者がいる場合だ。ろうあ協会の事務所や手話通訳を置いている会社など、常に通訳者がいるようなところのろう者には電話をかけることもある。また、同様に、先方に通訳者がいることを承知してろう者に電話をかける聴者もいると思う。

 では、相手がろう者であることを知らずに電話をかけることもあるのだろうか。あると思う。連絡先として電話番号が書かれていたので、かけてみたら相手はろう者だったとか、FAXだったという状況ではないだろうか。その電話が勤務先等であれば、周りの聴者が代わりに出てなんとか伝えてくれるのかもしれない。

 しかし、ろう者に電話することに慣れていない聴者はたくさんいる。私のところにも電話がかかってくることがある。基本的にはFAXでやり取りしたいが、先方が、何か急いで確認したいときには電話にしたいのだろう。そこで「お電話をしたいので、代わりにお話しできる方はいませんか」とFAXがきたりする。「代わりにお話できる人」でなければならないのだろうか。こちらからのFAXに「手話通訳学科」と明記してあるにも関わらず、通訳を介して私と話をするという発想にはならないらしい。手話通訳者の存在はまだまだ知られていないのだと改めて思った。

 さらに、通訳を介して電話をしていると、最後に電話口の通訳者の名前を確認されることがある。電話の主は私なのだから、通訳者の氏名などは関係ないはずだ。また、通訳者の氏名を伝えてしまうと、次からはその通訳者に電話がかかってくるようになる。一般の聴者は、ろう者に代わって電話口に出る人を「通訳」ではなく「代理人」ととらえているようだ。私たちろう者もこのような現状をふまえた上で、通訳を介して社会にアクセスしていることを周知していかなければならないと思う。

(日本語訳:chu)

■このメルマガは、2009年1月15日にまぐまぐ!によって配信されたものです。

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2009/02/09

No.124 ■漢字手話

 日本手話話者は日本語との接触が多いので、日本手話には漢字の借用が多い。「田」「中」「川」などのように人名を言うときによく使われるものも多い。

よく、手話学習者が、自分の名前は「原田」なのに、手話では<腹・田>とされて嫌だと言うことがある。しかし、ろう者は<腹・田>として「原田」と理解している。また、「片倉」も手話では<肩・倉>だし、「森宗」を<森・胸>とするが、ろう者にとっては何ら問題はない。また<岡>の手話も「岡」「問題」「関」となり、紛らわしくて嫌だとも言われるが、ろう者は難なく弁別している。

漢字手話には、漢字の形を使うものと、漢字の音を使うものがある。聴者から文字どおりに分けて表出してほしいといわれても困る。それは、中国語や英語に対して紛らわしい発音は迷惑だからはっきり聞き分けられる発音に変えろと言っているようなものだ。

言語はそれぞれの決まりがあるのだから、なんだかんだと不満を言わず、「手話とはこういうものなのだ」と受け入れてもらうしかない。それが、言語を学習するときの姿勢ではないだろうか。ろう者も、手話学習者の意見に右往左往する必要はない。自分たちはこの方法できちんと通じていると自信を持って答えればよいのだ。

手話学習者の手話のとらえ方で首を傾げることもいろいろあるが、今回はその中の漢字手話を取り上げてみた。漢字借用が違う文字になっていても、そのような使い方をするものなのだと素直に学んでいっていただきたい。

(日本語訳:chu)

■このメルマガは、2008年12月22日にまぐまぐ!によって配信されたものです。

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2009/02/02

No.123 ■人差し指は大切

 指差しは手話では大切な要素だ。日本語対応手話では、主語を表す指差しはあまり見られないが、日本手話では指差しは頻繁に使用される。日本語対応手話は、その名の通り日本語に対応しているので、主語を省略することの多い日本語に即して指差しは使われない。一方、日本手話は英語のように主語を明確にする言語であるため、指差しを多用する。そのため指差しの入らない日本語対応手話を見るときは、それを一度日本語に訳して理解するという手間がかかる。ろう者にとって指差しはとても大切なものなのだ。

 赤ちゃんは、指差しを手がかりに指された方向を見る。聴者の赤ちゃんは、音声言語の発達とともに指差しへの反応は少なくなり、さらには人を指差してはいけないという聴者の規範を教えられる。一方、ろうの赤ちゃんは、指差しの使用を見ていくうちに自分も表出するようになる。初めはその場にいる人や見えるものだけを指すが、1歳半ころになるとその場には存在しないものへの指さしができるようになる。

 指差しは、主語と目的語を明確にする役割がある。3歳児でも「私は○○くんが好き。○○くんも私を好き」と手話で言うことができる。○○くんがその場にいなくても、きちんと主語と目的語を明確に表出できるということだ。また、「自転車を壊した」と「自転車が壊れた」では、語順は同じでも文末の指差しの先が違う。「(私が)言った」と「(彼/彼女が)言った」は<言う>の方向は同じでも文末の指差しの先が違っていて、主語が省略されたとしても文末の指差しが主語を明確にする。さらに、指差しと同時に指差しの先に視線が向くと、文末の指差しは目的語を表すことになり「私が(彼/彼女に)言った」になる。

 このように、指差しは手話の中で重要な文法的役割を担っている。ろう者は自然に手話を習得したため、文法のことなど意識せずに手話を使っていると思う。しかし、手話学習者や日本語対応手話を使う聴者がろう者の表出した指差しの先を見ようとすることに違和感を覚えることはないだろうか。指差しの先を見るのは、その指差しの文法的役割を理解していないからで、手話の習得度がうかがえるというものだ。

 聴者の皆さん、手話の指差しを見てその先に何があるのか見たくなったら、あなたの手話はまだ言語として習得されてはいない。指差しは手話習得度をはかるバロメータなのだ。

 ろう者にとって指差しをするための人差し指はとても大切だ。人差し指を欠くことは死ぬことと同じ。指差しだけでストーリーを語ることもできる。それくらい大切なものであることをわかっていただきたい。

(日本語訳:chu)

■このメルマガは、2008年12月15日にまぐまぐ!によって配信されたものです。

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2009/01/26

No.122 ■外国人ろう者とのコミュニケーション

 私が初めて海外で外国人ろう者と接したのは、20年以上前の香港だった。当時はまだアメリカ手話(=ASL)がわかるわけでもなく、やり取りにたいそう苦労した覚えがある。手話は身振りのようなものだから、世界各国のろう者と通じるだろうと言われることが多い。英語やドイツ語、フランス語、韓国語など音声言語でやり取りできるようになるための努力に比べれば、手話の方が通じやすいというのだ。たしかに外国語(音声)を扱うのと比較すれば、ろう者同士の方が何か共有部分が多いような気はする。だからといって必ずしも通じやすいというわけではない。

 昔、勉強のためにアメリカに行っていたことがある。現地で勉強することが目的だから、ASLが使えなければならない。一応、渡航前に初歩的なASLを勉強してから出かけたが、現地では何の役にも立たなかった。何を言われているのか皆目検討がつかないし、身振りを交えて意思疎通するにはえらく苦労した。現地のろう者にASLだけでなく身振りやCLを多用してゆっくりと表出してもらい、なんとかわかった。そして1か月の滞在中にたくさんのろう者の手話を見て、少しずつ理解できるようになり、帰国前には大体のことがわかるまでになった。

 1対1のときは、相手もこちらに合わせてゆっくりわかりやすく手話をしてくれるが、現地のろう者同士の会話になるとものすごいスピードで、何を言っているのかさっぱりわからなかった。

 今、わが家にアメリカからの客人がいる。自分の生い立ちや経験談、趣味、日本の文化などの話題はつたないASLでも何とか話すことができる。一方、待ち合わせの時間や場所、電車の乗り換え方法、約束の変更などを説明するのは意外に難しい。何度も何度も確認を繰り返し、やっと通じたときにはほとほと疲れ果てている。これらを支障なく話すためには、社会人1年生程度のASLが使えなければならないだろう。私のASLは小学校低学年レベルでしかない。

 ろう者同士は国が違っても通じると豪語しているろう者も多い。本当にそう思っているのだろうか。たしかに、音声言語に比べれば、手話の方が通じやすい気がするのかもしれない。しかし、説明、指示、提案などをしっかり話すには、やはりその国の手話に熟練していなければ苦しい。手話も言語だ。英語を勉強するのと同じように気合いを入れてASLを勉強し習得しないと、十分なコミュニケーションは得られない。

(日本語訳:Chu)

■このメルマガは、2008年12月10日にまぐまぐ!によって配信されたものです。

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2009/01/19

No.121 ■大学講義における手話通訳について

 もう20年も前になるが、私が大学生だった頃はまだ講義における手話通訳保障はなかった。それでも学内のボランティアによるノートテイクを1か月30時間まで利用できるシステムがあったので、クラスメイトなどに協力してもらっていた。ノートテイクをする学生自身も同じ講義を受けているので、自分のノートもとらなければならない。そこで、私が黒板やノートテイクしてもらっているものを見ながら、カーボンを挟んだもので二人分のノートをとるようにしていた。ところが、ゼミの場合はノートテイクでは追いつかない。やはり手話通訳の方がよいと思い、個人的に通訳を依頼していた。しかし、通訳者といってもそれほど手話がうまいわけではない。何もないよりはと思いお願いしていたが、日本語対応手話だったので常に何を言っているのか考えながら見なければならなかった。また、自分の意見を述べるタイミングがつかめなかったし、質問されてもすぐに答えられないこともあった。

 当時活動していた、関東聴覚障害学生懇談会のスローガンは「聴覚障害学生の聞く権利、学ぶ権利を保障しよう」というものだったが、参加している聴障学生のほとんどはインテグレーション経験者で、日本語対応手話が使われていた。

 今また大学院に行っているが、今は大学院側が通訳の予算を確保してくれるし、日本手話で通訳してもらい、快適に学べるようになった。通訳者によって技量に多少の差はあるものの、ほとんど問題なく内容を理解できる。日本語の語を伝えなければならない箇所では、引用という指文字や空書、マウジングなどの方法で的確に表出される。日本語の中に英単語が混ざるような感じだ。日本手話による通訳で何ら支障はない。

 ところが、大学の講義通訳について唖然とするような意見を聞いた。「ろう学生は甘い。最近日本手話による講義通訳を求める声が多いのは問題だ」という。最近、日本の大学では中国など他国からの留学生が増えている。彼らは、苦労しながら第二言語である日本語で講義を受けている。だから、ろう学生は日本手話の通訳がほしいなどと甘えたことを言わず、日本語対応手話の通訳にすべきという主張らしい。

 果たしてそうだろうか。日本語対応手話を求める聞こえない学生もいれば、日本手話を求めるろう学生もいる。それぞれが希望する手話で通訳されるべきではないのだろうか。他の留学生と同様に第二言語で頑張れというのであれば、100%日本語どおりにならなければならないが、日本語対応手話で完璧に日本語を表現できるものだろうか。さらに、その日本語対応手話を見て、自分で日本語に変換して理解するという二重の段階を経なければならない。何より、第二言語で受講するという条件ならば、ろう学生の場合は日本語対応手話通訳ではなく、日本語を文字で見ることになるはずだ。

 いずれにしても、100%日本語に対応した手話はできないということと、日本語対応手話から日本語に再構築しなければならないという問題が残る。外国人留学生が第二言語である日本語を聞くのとは条件が違う。先の意見は、そのことを考えていないのではないだろうか。

 やはり、ろう学生への手話通訳は日本手話で行われるべきである。第二言語と向き合う場面は、文献を読んだりレポートを書くというところで十分に登場する。大学講義のようなものは日本手話でこそ十分通訳し得るのである。

(日本語訳:Chu)

■このメルマガは、2008年12月2日にまぐまぐ!によって配信されたものです。

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2009/01/12

No.120 ■通じているようで通じていない

 同僚の市田先生は手話に堪能だ。それなのに、たまに話が通じていないことがある。手話ではなくNMSだけで表出したときに、質問と回答がかみ合っていないように思うことがあるのだ。本人は通じているつもりらしいが、あとから確認するとやはり違っていたりする。市田先生とは気心も知れているので、違うときは違うと言えるが、困るのは一般の聴者の場合だ。

 もちろん、ろう者同士でも解釈がずれることはある。何だかくい違っているような気がすれば、確認して修正するものだが、相手が目上の人やお年寄り、日頃面識のない人だったりすると、修正するのも気が引けてそのままにしてしまうこともある。しかし、それ以上にやっかいなのは手話学習者の場合だ。さらに困ったことに、その中には手話通訳者や手話通訳士が含まれることもある。

 何かの大会や行事などで久しぶりに会った聴者に挨拶されることがある。こちらも挨拶代わりに簡単な話をするが、それに対する返答がくい違っていることが多い。そこでやむなく、こちらから聴者に話を合わせるが、それに対する返答もまたかみ合っていないのだ。結局、話がかみ合わないまま別れることになり、釈然としない思いだけが残る。なんとも不思議なことだ。他のろう者も同様の経験をしているようで、通じていないと思いつつそのままにしたり、自分の話しはなかったことにして、相手の話に合わせていくことが多いらしい。

 先日、国リハの学生が、ある聴者とろう者の会話を目にした。手話がまだ未熟な学生の目から見ても、日本語対応手話をする聴者と手話で話すろう者の会話はどうもかみ合っていないようだと思った。それなのに当人同士は納得しているようだ。学生は、これでいいのだろうかと疑問に思ったらしい。同様の光景はよく見かける。傍から見ていると明らかに違うことを言っているのに、当人同士はわかったつもりでいて、後になってから言ったことが違うともめるのだ。

 ろう者が返答もせずただうなずいているのは、話が通じていないような気がして戸惑っているときだ。そのような反応をされたら、聴者は自分の話がろう者に通じていないと気づかなければならない。またろう者も、聴者との話のくい違いを放置せず、今の返答はおかしいとはっきり言うべきかもしれない。そうしないと、現状は改善されない。ろう者はろう者同士のおしゃべりで事足りてしまって、あえて聴者との齟齬を修正しようとは思わないのかもしれないが、それでは、いつまでたっても聴者の手話は上達しない。是非、一言言ってほしい。しかし、毎回修正するのは疲れる。面倒だ。だから3回に1度にしてはどうだろうか。何度か言われているうちに聴者も気づくと思う。
 
 このように通じているようで通じていないことはよくある。お互い気をつけていきたい。

(日本語訳:Chu)

■このメルマガは、2008年11月24日にまぐまぐ!によって配信されたものです。

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2009/01/05

No.119 ■秋篠宮妃紀子さまのおことば

 先日、東京のオリンピック記念青少年総合センターで、第38回全国ろうあ婦人集会が開催された。その式典に、なんと、秋篠宮妃紀子さまがご臨席になった。ご臨席については、直前まで公表されていなかったので、当日会場で驚いた参加者も多かったのではないだろうか。

 秋篠宮妃は以前から手話をなさっていた。お年も私と近いようで、学生の頃お姿を見かけたことがある。当時の関東聴覚障害学生懇談会がオリンピックセンターで会合を開いたときなど、紀子様もいらっしゃっていたのだ。その頃既に皇室へのお輿入れが決まっていたのではないかと思うが、紀子様の手話は、秋篠宮殿下と同じ学習院大学に在学なさっていた頃からだ。

 婦人集会の式典では、その秋篠宮妃のおことばがあった。秋篠宮妃は「高校生の手話によるスピーチコンテスト」にもご臨席になるが、その際のおことばは短く、手話も上品でおっとりとしていると聞いていた。ところが、今回のおことばはなんと15分間もあり、その内容もすばらしいものだった。お手元に原稿を用意していらっしゃったが、全部覚えていらっしゃったようで、原稿に目をやることはほとんどなかった。たまに手話を間違えそうになっても、動じず、さりげなく上品にこなしてしまわれた。お話なさるときも皇室の方らしくおっとりと優雅に話されるが、手話も同じだった。ただ、日本語を話しながらの手話だったことは残念だが、それでも、表出がゆっくりだったことと、一つひとつがはっきりしていたこと、さらにスクリーンに字幕が出ていたことで、参加者にもその内容はわかったと思う。

 皇室に手話ができる人がいるというのは、その国のろう者への理解の現われとも言えて喜ばしい。しかし、日本語を話しながら手話をされると、手話やろう者のことをよく知らない国民に、それがスタンダードなのだと誤解させてしまうのではないだろうか。やはり、皇室は国民への影響力が大きい。せっかく手話に理解をお持ちなのだから、是非、ろう者の自然言語である日本手話でお話をしていただきたい。私は、紀子様のように上品に話すことはできないが、是非、優雅に日本手話を話す紀子様を拝見したい。紀子様はまだお若く、この先も十分に時間がある。紀子様に手話を指導している方に是非お願いしたい。国民にこれがろう者の使う手話だと知らせるためにも、皇室の方に日本手話を使っていただきたいのだ。

 それでも、先日の秋篠宮妃はすばらしかった。ろうあ女性の歴史についても十分盛り込まれ、私たちの方が逆に学ばせられた。感動的なすばらしいおことばだった。


(日本語訳:chu)

■このメルマガは、2008年11月19日にまぐまぐ!によって配信されたものです。

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2008/12/29

No.118 ■華奢なろう者?

 これからお話しすることは、科学的根拠に基づいたものではないので、そのつもりでご覧いただきたい。

 ろう者は、よく「ろう者顔」とか「聴者顔」とか評することが多く、集合写真を手に、誰がろう者で誰が聴者かと話題にする。しかし、これも科学的根拠があるわけではない。たまに、てっきり聴者だと思ってみていたらろう者だったということもある。

 私見であるが、どうも「華奢なろう者」はいないように思える。たとえ細身であっても、筋肉質で鍛えられた体をしているものだ。日本語の「華奢」が意味する、楚々として弱々しい人というのはろう者には見られない。ろう者だけでなく、最近の若い聴女性にも見られないように思うが、一昔前は「華奢な」人が結構いたのだろう。ろう者はたとえ病気になってもがっしりしている。繰り返して申し上げるが、これは科学的根拠や統計に基づいたものではなく、あくまでも私たちろう者の直感的な感想である。

 「華奢」だと言われる聴女性は伏目がちにおしとやかに話すが、ろう女性は常に周りを見るため頭を上げ、手話をするので上体が鍛えられている。弱々しく手話をすることはない。もちろんろう女性にも女らしい人はいる。しかし「華奢」とは違う。もしかしたら、小さいときから毎日手話をするおかげだろうか。

 是非、人間工学に基づいた分析をしていただけないものかと期待している。

(日本語訳:chu)

■このメルマガは、2008年11月11日にまぐまぐ!によって配信されたものです。

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2008/12/22

No.117 ■裁判員制度と手話通訳

2009年5月21日から国民が参加しての裁判員制度が開始される。国民から選ばれた裁判員6名と3名の裁判官との合議による裁判である。その裁判員にろう者が選任されるかどうかが問われている。7月の東京地方裁判所における模擬裁判以降、全国各地でろう者が参加して研修を行うところが増えている。それ自体は喜ばしいことであるが、一方で懸念されることもある。

7月の模擬裁判のときは、初めてろう者が参加するということでたくさんの取材陣が集まった。ところが、その後放送されたのはごく一部で、本当に言いたいことは取り上げられなかった。裁判員の参加する刑事裁判では、証拠や証言に基づいて被告人が有罪か否かを決めなければならない。その際、証言の内容のみならず話し方や態度も重要な判断材料になる。通訳者の技術によってはもたらされる情報に差が出るかもしれないと話したのは確かだ。だからこそ裁判員制度が始まるまでに十分に研修をしておくべきだと言いたかったのだが、放送されたものは、その部分がごっそり削除されていた。

最近、各地で模擬裁判が行われており、石川県では裁判所の全面的な協力を得て通訳研修として模擬裁判を行ったようだ。ところが、やはりそこでも、今の通訳者では十分に内容が伝えられないと語られていた。また、通訳者数の地域格差や、別の職業に就いている通訳者が多い中、裁判の通訳を確保できないのではないかというコメントも報じられていた。私のときと同じように、取材では他にもたくさんのことを言っていたのに、その一部だけ放送されてしまったのかもしれないが、マイナスのことばかり前面に押し出したニュースになっていた。

通訳者の力量が不十分なのであれば急いで特訓するとか、来年の5月には間に合わなくても先々を考えて研修を充実されておくとか、人が足りないのであれば、一つの県だけでまかなおうとせず、近隣の地域で協力し合うなどの対策を講じればよいのではないだろうか。今のように、マイナス面だけを強調していると、ろう者は裁判員として不適格だと思われかねない。

裁判員制度にあたり考えなければならないことは二つある。まず、ろう者の審理への参加を保障すること。そしてそのために、通訳者がしなければならないことを整理し、課題解決に向けて取り組んでいくことだ。この2点を混同すると要らぬ誤解を招きかねない。通訳の保障が万全でないから、ろう者を裁判員候補者から外すとなっては、本末転倒だ。たしかに通訳者の力量も様々だと思うが、社会に向けて「通訳士でも十分に伝わらない」と発信することはない。外部に対しては社会的な課題解決の必要性を、関係者には研修・訓練の必要性を訴えるというように、場を考慮して発言してほしい。

(日本語訳:chu)

■このメルマガは、2008年11月3日にまぐまぐ!によって配信されたものです。

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2008/12/15

No.116 ■多義語と同音異義語

 メルマガNO.110で「多義語と同義語」についてお話したところ、"はく"は同音異義語ではないかとのご指摘をいただいた。そこで、「多義語」について改めて調べてみたので、その結果をご紹介したい。今回は、日本語の例示が多くなるがご容赦いただきたい。

 日本語には、"はく""みる""さす"などの「多義語」が存在する。同じ"みる"でも"見る/診る/看る/観る"など意味によって漢字表記も異なっているが、元を正せば同一の語で、漢字表記によって微妙な意味を使い分けている「多義語」という。一方、「同音異義語」は音は同じでもまったく意味の異なる語をいう。

 前述の"さす"は"刺す/射す/挿す"と表記するように、元は「尖ったものがある方向をもつこと」という意の多義語である。メルマガNO.110で多義語と紹介した"はく"は、研究者によって解釈が分かれているらしい。一つは"はく"を二つの異なる語ととらえるもので、"はく(A)=吐く/掃く"と、"はく(B)=(靴を)履く/(ズボンを)穿く/(刀を)佩く"に分けている。"はく(A)=吐く/掃く"は「接して動くことで取れること」という意味で、"はく(B)=履く/穿く/佩く"は「接して動くことでつくこと」という意味のものであるから、"吐く/掃く"や"履く/穿く/佩く"はそれぞれ多義語であるが、"はく(A)"と "はく(B)"は同音異義語であるという考えらしい。一方、「取れる」と「つく」を区別せず"はく"は一つの多義語であるという考え方もある。

 同音異義語は多数存在する。例えば"せいし"と聞いても何の意味か特定できない。"製紙/製糸"はいずれも"せいし"と読み、音だけでは判別できない。そのため、「糸を作る製糸」とか「紙を作る製紙」というように説明を付加しなければならない。また、"しりつ"のように「いちりつ(市立)」や「わたくしりつ(私立)」と読み替えをすることもある。"しあん"も「こころみの案(試案)」「わたくしの案(私案)」のように説明を付して、誤解を避けている。これらは明らかに違う意味の語で音が同じものである。一方、"足/脚"は元々は同じ意味の語で多義語である。このように多義語・同音異義語は研究者によって区分の仕方が異なっているようだ。

翻って手話ではどうだろうか。残念ながら手話の多義語・同音異義語についての研究はまだ着手されていない。今考えられるのは、以前紹介した"通訳/紹介/案内/ガイド"や"会議/打ち合わせ/カウンセリング/相談"が多義語にあたるのではないかというくらいだ。いずれにしても、改めて言語学の奥深さを知った。きっかけとなるご意見をいただき、お礼を申し上げたい。

(日本語訳:chu)

■このメルマガは、2008年10月27日にまぐまぐ!によって配信されたものです。

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2008/12/10

No.115 ■下を向くのが美徳?

 私はこれまで、いろいろな所でいろいろな人を対象に講演をしてきた。一番しっくりくるのは、ろう者だけが集まっている講演会だ。聴衆がろう者だと、コミュニケーションをとりながら講演を進めることができる。全体の反応を見ながら話すことができて心地よい。

 一方、最も居心地の悪いのは、手話のこともろう者のこともわからない聴者を相手に話す場合だ。手話に関する演題に興味をもって参加してくれるのだと思うし、当然、手話通訳も付いているのだが、どうも苦しい。目に入ってくるのは聴衆のつむじばかり。誰一人顔を上げて聞いている人はいない。たまに目を上げてもすぐ下を向いてしまい、こちらをじっと見てくれる人はいない。聴衆は手話がわからないので、メモを取りながら通訳者の声を聞いている。気が向いたときにだけ手話を見る。私の話を聞いてくれているのかどうか不安になり、どうもいたたまれない。

 手話を学習したり、手話通訳を目指している人たちは、必死に手話を見ようとするので、まだ救われる。しかし、やはりろう者のような反応は得られない。こちらが予想する反応とは異なっており、調子が狂うこともある。

 以前、模擬裁判に参加した際に一緒に裁判員役になった聴者の控室での様子に違和感があったと書いた(メルマガNO.108)ところ、「性格によるのではないか」というご意見をいただいたが、そういう問題ではない。評議の時間になれば、自分の意見を言える人とそうでない人という性格の違いが影響するかもしれないが、朝の待合室のことである。別に意見を述べる場ではない。そこで違和感があったのは、全員が一様に下を向いて押し黙ったままだったからだ。やはり聴者は、音で外界を判断するので、あちこちきょろきょろと見回す必要がないらしい。ろう者はできない。周りが知らない人ばかりでも、目を伏せてじっと待っているなどとてもできない。どうしても目で確認し、知り合いだったら挨拶くらいしたくなる。逆に、他者をシャットアウトしているろう者がいるとしたら、その方がおかしいし心配の対象となる。ろう者は自然に周囲に目を配っているものなのだ。

 小さい頃、親せきのおばさんたち(聴者)に連れられて出かけた際に、「ハルミちゃん、きょろきょろしてはいけません」と注意されたことがあった。むやみに人の顔を見てはいけないらしい。両親と出かけたときにはそのようなことは言われなかった。共にろう者だから周りを見ることは当たり前のことだったのだろうが、親せきのおばさんの意見は違った。そこで改めて様子を伺ってみると、やはり聴者はみな下を向いていた。

 下を向くことは、意見が言える言えないという性格によるものではなく、聴者の美徳としてとらえられているものであり、このように目を使うか耳を使うかの違いは、ろう者と聴者の文化の違いととらえられるものだと考える。

(日本語訳:chu)

■このメルマガは、2008年10月20日にまぐまぐ!によって配信されたものです。

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2008/11/10

No.114 ■敬語表現がないってホント?

 これまで、さんざん「手話には敬語がない」と言われてきた。敬語に限らず丁寧な表現などは言語によってそれぞれ異なっているものだが、一方的に「手話には敬語がない」と決め付けている人に、いくら説明しても埒が明かないと思い、これまで手をつけずにきた。しかし、あまりにも誤解が蔓延しているのを放置してもいられないので、そろそろ取り上げてみようと思う。

 日本語の敬語には、尊敬語や謙譲語などいろいろな形があるが、世界的にみても、これほどまでに細分化された敬語を持っている言語は珍しい。日本語の敬語は文法化されたものだ。このように文法化された敬語を持つ言語は日本語だけではないだろうか。韓国・朝鮮の言葉にも敬語はあるが日本語ほど厳しくはない。そのため、日本語を学ぶ外国人は敬語の学習で四苦八苦するが、一度文法がわかってしまえば、逆に敬語使用は楽なのだそうだ。最近は、日本人でさえ正しい敬語を使えない人が多いというのに、外国人の方が使いこなせるのはなぜだろう。

 英語をはじめ、外国語にも敬語に相当するものはある。日本語とは表現方法が異なっているだけだ。外国語では、(1)発音、(2)イントネーション、(3)顔の表情や(4)態度、(5)話の進め方などで敬意を表現する。手話も同じような方法を用いる。手話の敬意表現は日本語のように文法化されたものではないが、目上の人や初対面の人、親しくない人には、ゆっくり話したり、丁寧な言い方を選ぶなどの方法をとる。外国語の五つの方法で見れば、(1)手の動かし方、(2)手話の速度、(3)あごや上体を控えめに、(4)胸を張らず謙虚に、(5)相手を尊重した話し方や話の進め方などで敬意を表現するのだ。

 敬語を使うのは、立場の上下だけではなく、相手との距離の関係もあり簡単ではない。外国語の五つの方法は、文法化されていないものだけに習得が難しいらしい。どの相手にどの言葉を選ぶか、どのような態度をとれば正解か、なかなか機械的には習得できない。そのような言語を使ってきた人たちにとっては、文法化された日本語の敬語は逆に使いやすいというのもうなづける。

 聴者は自分の身についている日本語と手話を比較して、日本語にあるものが手話にはないと決め付ける。自分の言語のものさしで手話を評価するのは無意味だ。言語にしても文化にしても、表現方法はそれぞれ違っているのだということを念頭において双方を見ていただきたい。また、ろう者も、日本語にはあるのに手話にはないと言われても安易に納得せず、手話が持っている表現方法を見つけてほしい。ただ、聴者は学校で日本語の授業があったのに、ろう者はろう学校で「手話」という教科を学ぶことはなかった。いずれ、バイリンガル教育の中でろう者が自らの言語である手話についてしっかりと学んでいくことと思うが、既にろう学校を卒業した方々も、これからでも、是非手話の言語的特性について考えていただきたい。

 繰り返しになるが、敬意の表現は言語によってそれぞれの方法があるのだ。


(日本語訳:chu)

■このメルマガは、2008年10月13日にまぐまぐ!によって配信されたものです。

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2008/11/03

No.113 ■勝手な解釈

 私は「ナチュラル・アプローチ」という教授法で手話を教えてきた。ところが、この「ナチュラル・アプローチ」が勝手に解釈されて使われることがある。そもそも「ナチュラル・アプローチ」とは語学教授法の一つで、クラッシェンとテレルが考案したものだ。アメリカではいかに移民に英語を教えるかが課題だった。文法教授法、単語教授法、翻訳教授法といろいろな方法で英語を教えようとしたが、なかなか成果があがらない。そこで考案されたのが「ナチュラル・アプローチ」だった。この教授法は一定の成果を上げ、教本が出版され1980年代に日本にも入ってきた。もともとは英語指導のためのものだが、どの言語にも応用できる。そこで、日本でも1989年以降の手話教授法に取り入れられた。私が実践を始めたのは1991年からで、教本を基にアメリカの手話教授の様子を参考にしながら続けてきた。

 「ナチュラル・アプローチ」は決して簡単なものではない。原則として、教師は目標言語の母語話者であることが求められる。つまり、手話の場合はろう者かコーダとなる。非母語話者では限界があるため、聴者はサポート側にまわるのが良い。国リハ手話通訳学科では、ナチュラル・アプローチで手話を教えている。また、ナチュラル・アプローチによる教授法の研修を受けた方々が一般の手話教室などで手話を教えているが、最初から順調に教えられるわけではない。ナチュラル・アプローチは目標言語のみで(日本語を介入させず、手話で)手話を教えるので、ろう者には取り組みやすいが、その分豊かな経験と理論的な裏づけが必要になる。手話ができるということだけで誰でも簡単に取り入れられるものではない。

 同様に、日本語教授法の研修には470~600時間かかるという。言語習得の理論や言語指導のノウハウを学習しなければ外国人に日本語を教えることはできない。日本語を話せるから日本語を教えられるというわけではないのだ。ナチュラル・アプローチもそれ以上の学習と研鑽が必要で、なんとか一人で指導できるようになっても、うまく進められず四苦八苦することも多い。指導技術にばらつきはあるものの、ナチュラル・アプローチで手話を教えられる人は国内で40人くらいになり、嬉しく思っている。

 一方で、困った現象もある。先日、「『ナチュラル・アプローチ』で(を)指導する」と掲げているHPを目にしたが、どうも理論が伴わず「ナチュラル・アプローチ」という言葉だけを使ったもののようなのだ。ナチュラル・アプローチは言語習得の過程や、指導のカリキュラム等しっかりした理論に基づいたもので、ろう者がでたらめに手話を見せれば良いというような安易なものではない。それが数箇所で行われているようだが、さらに始末の悪いことに、手話の母語話者ではない人が中心となっているところさえある。

 「ナチュラル・アプローチ」を「ろう者の自然な手話を教えること」などと勝手に解釈して、ろう者が手話で教えればいいのだろうと簡単に考えることは止めていただきたい。ある言葉に接したときに、その内容を理解もせずに批判したり、安易に利用することは止めたいものだと自省も含めて思っている。「ロールシフト」も同様である。「ロールシフト」とは「役割交代」のことであるが、上体の向きを変えることと間違って解説している通訳者が書いた書物もある。その意味をしっかり理解せず、勝手な解釈で用語だけを利用しているのだ。少なくとも通訳者たる者やっていいことと悪いことの分別がほしい。

 これらに限らず、新しい言葉に接したら意味・内容をよく勉強し、理解してから使うようにしたいものである。

(日本語訳:chu)

■このメルマガは、2008年10月7日にまぐまぐ!によって配信されたものです。

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2008/10/27

No.112 ■そもそも言語通訳って?

 先日、ふるさと山口で全国手話通訳問題研究集会が開催され、その第5講座「通訳の世界」に参加した。この講座では、司法通訳の分野で有名な長尾ひろみ先生のお話があり、他には手話通訳の事例検討などが行われた。事例検討は、通訳の経験年数によって10くらいにグループ分けされ、ろう者はろう者だけで1組となった。課題の事例を各グループごとに検討し、発表し合い、最後に講評を聞くという手順で進められた。

 その発表の際に、最近のはやりなのか「言語通訳」という言葉が多用されていて違和感があった。そもそも「言語通訳」という言葉はない。「通訳」=「言語の通訳」なのだ。従来、通訳といえば英語やドイツ語・フランス語など外国語との通訳を指していた。昔、手話は言語だと思われていなかったので、手話通訳は言語通訳の仲間に入れられていなかったかもしれない。しかし、近年手話は言語であると言われ、手話通訳も当然言語通訳の一つであると認識されていると思っていた。ところが、先の事例検討の発表を聞いていると、どうもそうではないらしい。

 その発表の際に使われていた「言語通訳」という言葉は、起点言語から目標言語に直訳する作業だけを意味しているようだ。よっぽど訂正しようかと思ったが、場を考えて踏みとどまった。その事例とは、次のようなものだ。ろうの新入社員を迎えた会社の話で、その新入社員のために同僚たちは朝礼の内容を筆談で伝える等の配慮をした。ところが、ろう社員にしてみれば、話されている量に対して、提供されるメモがあまりにも簡単なので内心不満だった。それでも、周囲の社員たちとも打ち解けている様子だったので、上司は胸をなでおろしていたが、実はろう社員はそこで仕事をするのはもう限界だと思っていた。ろう社員は悩んだ末に、通訳者を伴って会社に話をしに行く。そのとき通訳者であるあなたはどうするか、というのが検討課題だ。

 会議通訳、コミュニティ通訳、ビジネス通訳、通訳ガイドなど、通訳にもいろいろあるが、総じて「通訳(言語通訳)」である。そして、今回の事例はコミュニティ通訳の範疇の事例だと思う。ところが、検討結果の発表では、のきなみ「言葉の仲介だけの"言語通訳"で済ませることなく、クライアントの心情を思いやり、悩みを吐露させるように持ち掛けましょう」という発言が続いた。しかし、それは別に特別なことではない。そもそも通訳とは、言葉を訳すことと同時に双方の文化的差異、知識や背景の違いを踏まえた上で両者を結ぶことだ。そして、そのような「通訳(言語通訳)」の中に、コミュニティ通訳という、教育・医療・司法など日々の暮らしの場面で課題を抱えている人を支援する通訳の分野があるのだ。

ろう者は仕事、学校、病院などコミュニティ通訳を使うことが多い。そのため(言語)通訳の中でも、コミュニティ通訳の特性を踏まえて通訳すると言うのならばわかるが、「言語通訳だけで済ませることなく…」という言い方は的外れとしか言えない。

以前、「手先だけの通訳ではいけない」という表現をよく目にした。その「手先だけの通訳」が、言葉を訳するだけの「言語通訳」という意味だったのかと思う。そのような行為を通訳と言うこと自体間違っている。そもそも通訳とは、文化や生活の差異や隔たりを埋めながら言葉を訳すことなのだ。

手話通訳の世界で、間違った解釈が広まりそうで心配である。

(日本語訳:chu)

 

■このメルマガは、2008年9月24日にまぐまぐ!によって配信されたものです。

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2008/10/20

No.111 ■日本語対応手話を普及させているものは?

 私は、手話講習会では、まずろう者が使う「日本手話」を教え、その後必要があれば「日本語対応手話」を使うようにすればよいと考えてきた。聴者は日本語が身に染み付いているので、どうしても安直に日本語に手話単語を当てはめた表現になりやすい。それを避けるためにも、まず、習得するのに困難な「日本手話」をしっかり身につけ、その後難聴者や中途失聴者と話すなど必要に応じて「日本語対応手話」を使えばいいのだ。最初から、「日本語対応手話」を学習するのはなぜかと思ってきた。

 昔、ある通訳者が、「では、ろう者と手話のわからない聴者が同席している場面ではどうするのか」と言ってきた。その通訳者は「手話だけで話してしまうと、手話のわからない聴者が気の毒だから、日本語を話しながら手話もすれば問題は解決する」と言いたかったらしい。当時は未熟で、その説に対抗することができなかったが、考えてみれば、自分の知らない言語で話されれば、その内容を理解できないのは当たり前のことだ。手話を英語に置き換えて考えると、英語と日本語を同時に発音することはできないので、まず英語でやり取りをし、次に、同じ内容を日本語で話すという手順で会話を進めるのではないだろうか。それと同じことを手話と日本語ですれば良いだけではないか。なぜ、手話と日本語は同時に表出されなければならないと考えるのだろうか。双方が同時にわかるようにと思ってのことかもしれないが、結果的には聴者には伝わってもろう者には伝わらない。

 そこで、改めて「日本語対応手話」を広めているのは何かと考えると、元凶は意外にもろう者かもしれない。先日、ある講演会の質疑応答の時間に、聴者が質問に出てきた。すると司会をしていたろう者が、すかさずマイクを向けた。質問者は手話で話し出そうとしていたのに、急遽「日本語対応手話」になってしまった。ろう者の意識には、「聴者=日本語対応話者」という構図が出来上がっているのかもしれない。私が司会だったら、発言者が聴者でもろう者でも、また手話で話すにしても日本語で話すにしても、そこに通訳を付けただろうが、なかなかそこまで徹底されていない。意外にも、このようなろう者の無意識の行動が日本語対応手話の広がりを助長しているのかもしれない。

 さらに解せないのは、さまざまな手話通訳者向けの研修会で、聴講師が日本語対応手話をすることだ。手話通訳士を目指すレベルの人たちならば既に手話はわかるはずだ。ならば、手話だけで講義をすれば良いではないか。講師の手話を見てさらに勉強になるはずだ。ところが、講師が日本語を話しながら手話をすると、大半の受講生は音声に耳を傾けるだけなので、日本語対応手話をしていても意味がない。

 日本語対応手話を蔓延させている原因は聴者にもろう者にも見られる。聴者は自分自身が聞こえるから、いついかなる場合でも日本語対応手話をしなければならないと思っているし、ろう者は、聴者は日本語対応手話をするものだと思い込んでいる。日本語対応手話では何を言っているかさっぱりわからないと不満を言いつつ、日本語対応手話で話す機会を作っている。そのようなろう者の悪い癖はなくさなければならない。

(日本語訳:chu)

■このメルマガは、2008年9月24日にまぐまぐ!によって配信されたものです。

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2008/10/14

No.110 ■多義語と同義語

 以前、性別に関する手話の過剰使用について述べた(メルマガNo.102)ところ、反論が寄せられた。「通訳」はやはり親指でなく人差し指で表出するのが正しいと米内山氏が言っていたとか、「紹介」と紛らわしいので両者を区別するために、「通訳」は人差し指で表出するようになったのに、最近また混同されるようになり遺憾だというご意見だ。私が言いたかったのは、「(親指の)通訳」には「男性の通訳」という意味は含まれないということだ。

 先のご意見にあった、「紹介」と「(親指の)通訳」が紛らわしいという点、また、「通訳」は人差し指で表出すべきというご意見について一言。これは"多義語"または"同義語"である。

多義語とは、日本語の「履く/掃く/吐く」などのように、「はく」という同一の音節に複数の意味が該当する語をいう。手話にも多義語はある。例えば、「/明日/来る/」「(彼はいつもスピードを出しているので)/そのうち/事故/来る/」のように、/来る/という手話であるが違う意味を持つ語がある。

 一方、同義語とは、「食べ物」と「食物」、「打合わせ」と「会議」のように音節は違うのに意味が同じ、または似た意味の語をいう。もう少し広く考えれば、「平成20年」と「2008年」も同義語といえる。手話では、前述の「(人差し指の)通訳」と「(親指の)通訳」が同義語にあたる。手型は異なっているが、意味は同じであり、「(人差し指の)通訳」が正しくて、「(親指の)通訳」が間違いとはいえない。たしかに東京では、「(人差し指の)通訳」が使われているかもしれないが、私のふるさとでは「(親指の)通訳」が使われている。

さらに、この「(親指の)通訳」は多義語であり、「通訳」という意味と「紹介」「案内」などの意味を持つ。日本語の「はく」がそれだけでは意味がわからず、前後の関係から意味が決定するように、手話の「(親指の)通訳」も文脈から「通訳」なのか「紹介」なのか「案内」なのかわかるのである。決してどちらが正しくどちらが間違いというような問題ではない。

語には、多義語や同義語、類義語などがある。言葉について論じるならば、言語学の知識も知っておくべきではないだろうか。

(日本語訳:chu)

■このメルマガは、2008年9月15日にまぐまぐ!によって配信されたものです。

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2008/09/22

No.109 ■続 視線をあわせる

 メルマガ100号の「視線をあわせる」に対して、ある読者から反論をいただいた。ろう者の方が表情をあらわにするし、聴者は無表情だという。私の言葉が足りなかったために誤解されたのかもしれない。

 ご意見のとおり、ろう者の方が顔の表情は豊かかもしれない。また、前号の模擬裁判の感想でも述べたように、えてして聴者は無表情で無反応であることが多い。たしかに、聴者は他者の存在を意識しているときには、自分の感情を表に出さない。読者の意見でも、聴者は感情を顔に出すのではなく、声に出すのだとあった。まったくそのとおりだと思う。ろう者は聴者の表情からその感情を読み取ることができないことがしばしばある。

 私が言いたかったのは、表情が豊かであるとか、感情が表に出るとかの問題ではなく、他者から見られていることが前提になっているかどうかなのだ。ろう者は自分が常に周りを見ているから、逆に見られることも承知している。そのため、自分の感情や反応を他者に見せても良いと判断し、自分の考えを察知してほしいときにだけ、はっきりとリアクションする。そして、自分の考えを知らせないほうがよいと思ったときには、表情に出さない。つまり、自分の感情を露呈しても良いかどうか、判断しているということだ。

 それに対して、聴者は他者の視線を意識しているときには無表情・無反応であるが、他者の存在を意識していないときには、無防備に自分の感情をあらわにする。

 繰り返しになるが、見る文化と関係しているのだと思う。ろう者は見る文化を持っているので、見せる・隠すを意識的に操作している。ところが、聴者は聞く文化で、日頃はあまり表情を変えることはないが、ふとしたときに無防備に自分の感情を顔に出すことがあり、ろう者から見ると驚くということを伝えたかったのだ。

(日本語訳:chu)

■このメルマガは、2008年9月8日にまぐまぐ!によって配信されたものです。

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2008/09/15

No.108 ■模擬裁判ウラ話

 7月17~18日、東京地方裁判所で開かれた模擬裁判に出席してきた。これは2009年5月から開始される裁判員制度の予行演習として企画されたものである。今回参加してみて改めて実感した文化面のことについてお話したい。

 当日9時、裁判所の10階に集合した。本来ならば、通知をもらった裁判員候補者が集まり、その中から裁判員6名が選任されることになるが、今回は模擬なので、あらかじめ選ばれた裁判員役の6人が集まった。私が控室に到着したときには、既にほかの5人は着席していた。裁判員役は男女3名ずつであるが、全員が判で押したように下を向き、無言のままで微動だにしない。どうにも落ち着かず、集合から会場に移動するまでの30分間がやけに長く感じられた。遅れて通訳者が入室してきても、裁判員役の人たちに話しかけられる雰囲気ではなかったし、彼らも、私たちが手話で話し始めても気にするふうでもなかった。

 9時半に担当の裁判官が来て、移動することになり、ようやくその居心地の悪さから解放された。その後、別室で諸説明を聞くときにも、うなずくでもなく、説明がわかったのかどうかの反応がない。私一人通訳を見ながらうなずいていた。

 裁判員役の中に年配の男性がいた。大変積極的に質問をして、話し始めると止まらない。進行役の裁判長の顔にも、「もう黙って」と書いてあるものの、はっきりと発言を中断させたりはしない。どのように収拾するのだろうかと見ていたが、よくわからないうちに、発言者が変わっていた。聴者の話者交代の方法はよくわからない。

 また、ある男性は、裁判長から意見を求められたにも関わらずなかなか話し始めない。指名されたことに気づいていないのかと思えるほど、下を向いて黙ったままだ。しかし、裁判長もほかの裁判員もじっと発言が始まるのを待っている。私一人がやきもきしていた。私の我慢が限界に近くなった頃、彼はようやく話し始めた。このようなときろう者はどうするだろうか。もし自分の考えがまだまとまっていなれば、その旨をはっきりさせ時間がほしいと言うだろう。指名されたのに無視するがごとく無言でいることはできない。

 法廷では、裁判官と裁判員が一段高いところに着座し、法廷全体が見渡せるようになっている。裁判員席から通訳を見ながら適宜うなずいていたが、ここでもほかの裁判員が動く気配はない。そのためか傍聴席側の視線も私に集中していたように思う。うかつな動きはできないということだ。苦しかった…。

 模擬裁判、新たな発見がたくさんあった。

(日本語訳:chu)

■このメルマガは、2008年9月1日にまぐまぐ!によって配信されたものです。

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2008/09/08

No.107 ■年齢を判断するものは?

 聴者は会ったことのない人でも、その声で年齢を判断することがあるらしい。親せきのおばさんに電話通訳をしてもらうと、電話の後で、相手のことを「感じが悪い」「若そうだ」「年配か」などと評することが多く、よく声だけで相手のことがわかるものだと不思議に思う。その後いろいろと聞いてみると、女性なのにダミ声の人は喫煙者や酒飲みが多く、年配者だと思いきや会ってみると若かったとか、高くて張りのある声なので若い人かと思ったらそうでもなかったなど、いろいろな声があるようだ。

 一方、ろう者は相手を見ずして手話だけするということはあり得ない。相手を見ればその年齢も想像できる。ところが、外見以外で年齢を判断する材料は文字だというのだ。昔は面識のない人とも手紙やFAXで文字を介してやり取りしていた。悪筆の文面からどんな人だろうと思いきや、若くてきれいな人で唖然としたとか、あまりにも達筆で年配の人かとおもったら若かった、子どものような丸文字をいい大人が書いていたなど、文字と書き手の年齢のギャップは結構見られた。聴者が電話の声からその年齢を想像するように、ろう者は文字からどのような人なのかを想像していたが、最近は携帯メールが主流になり、その画面では送り手の年齢は判断できなくなってしまった。

 さて、一般的にろう者が人の年齢を判断するには、外見や肌の張りなどが判断基準となるが、顔を見ずに手話だけで年齢を当てる実験をした人がいる。Dプロという団体が主催したセミナー時の企画で、手話をする手から性別や年齢を当てるというものだ。これが意外におもしろかった。年配者の手は関節が曲がり気味でしわも目立ち、動きも緩慢。若い人の手話は滑らかで、男性の手はごついなど、それぞれに特徴があった。

同一人物でも、若い頃は滑らかな手話だったのが、齢を取るごとに動きがギクシャクしてくるのは何とも不思議だ。「全国ろう高齢者大会」と名称が変わった、ろう老人が集まる集会でも、参加者の手話は関節が曲がり気味で、強張った感じのものが多い。聴者の声でいえば、しゃがれた声というところか。誰もが押し並べて加齢とともにしゃがれた手話になっていく。しゃがれた手話になるのは、老化により手指の関節が硬化するためだろうか。手話と年齢の関係についての研究論文があるなら、是非知らせていただきたい。

(日本語訳:chu)

■このメルマガは、2008年8月19日にまぐまぐ!によって配信されたものです。

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2008/08/25

No.106 ■コミュニケーション・ストラテジー

 「コミュニケーション・ストラテジー」とは「伝達方略」と言い、コミュニケーション上の障害をいかに乗り越えるか、その方法のことをいう。例えば、相手の発言が聞き取れないときに、「え?」というアクションをしたり、もう一度聞き直すことなどだ。また、自分の発言を正しく理解されていないときの指差しなどの身振りもコミュニケーション・ストラテジーに入る。さらに、伝わりやすくするために発言を要約したり言い換えることもコミュニケーション・ストラテジーである。

 30~40年前と比べ、日本人のコミュニケーション・ストラテジーは変化しているように思う。昔、日本国内で使われる言語は日本語が大半だったが、最近はグローバル化に伴い違う言語を耳にすることも多くなった。加えて手話の認知度も高まり、身の回りで使われる言語が日本語に限定されなくなってきている。そのため、最近の日本人のコミュニケーション・ストラテジーは高くなった。

 それでも、世界規模で見れば、日本人のコミュニケーション・ストラテジーはまだまだ拙い。それは、日本人聴者が相手の顔を正視することが苦手であることに起因する。ろう者は常にコミュニケーション・ストラテジーを駆使せざるを得ない状況に置かれている。朝から晩までろう者としか会わないなどという環境はあり得ず、自宅や仲間内では手話で不自由なくやり取りできるにしても、職場やいたるところで聴者と接しなければならない。その度に四苦八苦しながらやり取りをしている。私も、職場こそろう者もいて手話を使える環境であるが、一歩外に出れば、いかに聴者と話を通じさせようかと次から次へと方法を考え続けている。そのため、大概のろう者はコミュニケーション・ストラテジーが高く、それゆえ聴者とやり取りができているのだ。

 ファーストフード店の店員にも、できる店員とできない店員がいる。相手の顔を見て「いらっしゃいませ」と言える店員は問題ない。メニューを指差しての注文もスムーズにいく。スターバックスコーヒーでも、できる店員は、メニューやサイズ、テイクアウトかどうか、代金などを確認するのに言葉を使わなくても大丈夫だ。ところが、できない店員ははじめから相手の顔を見ようともせず、一人でしゃべり続ける。

 先日、ある駅でスイカが使えなくなってしまったので、駅員のいる改札へ回った。そこには、いかにも新人然としたあまり人と会いたくないとでも言いたげな暗い駅員が立っていた。そこでスイカが使えなくなったとアピールしたところ、なにやらぶつぶつと呟いている。こちらはろう者だから筆談をしてほしいとアピールしても、何を言われているか理解できない様子だ。そこで、紙をくれという身振りをすると、ようやく紙を持ってきた。ところが、その紙に書かれたことに対して、またぶつぶつと話し始めたのだ。埒が明かないのでペンを持たせ、ようやく筆談となったが、たった数語で済むことに10分もかかった。いや10分は言い過ぎかもしれないが、それでも5分はかかった。

 人の顔を見れない人は、コミュニケーション・ストラテジーが低い。日本には、まだまだ人の顔を見れない人が多い。是非、教育現場で、相手の顔を見て話をすることを教えていただきたいものだ。


(日本語訳:chu)

■このメルマガは、2008年8月11日にまぐまぐ!によって配信されたものです。

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2008/08/18

No.105 ■誰も教えてくれない

 ろう者は、顔つきがいつもと違うときなど、思ったことを相手に言う。もちろん誰にでもというわけではないが、知らない人や通りすがりの人でなければ、たいていは言う。以前も、相手の容貌などについて口にすることが多いと述べたことがあったと思う。

 ところが、聴者は本当に他人の容姿については口にしない。ふと鏡を見て、歯に食べかすが挟まっているのを見つけたりする。それまで一緒に食事をしていて、みんなきっと気づいていただろうに、聴者は誰も指摘してくれなかったのだ。これがろう者同士なら、「おいおい、ついてるよ」と教えてくれるはずだ。

 私だけでなく、多くのろう者が似たような体験をしている。朝、職場に着いて同僚と何ごともなくあいさつを交わしてから、ろう者の同僚にほほに何か黒いものがついていると初めて教えられたという例もある。どうして聴者は見たものを教えてくれないのだろう。

 漫画で、「社会の窓が開いていますよ」と知らせるシーンを見たことがあるが、今も実際にそのような会話は行われているものだろうか。登場人物は聴者と想定して描かれているものだと思うが、そのような場面になったら皆さんはどうするのだろう。ろう者は教える。知り合いなら、直接告げるが、親しくない人だったら、他の人を通して知らせるようにしむけるなど、相手によって教え方は違っても、決して見過ごすことはない。聴者ははじめから見なかったことにしているように思える。

 これは「恥」の解釈の違いによるのだろうか。聴者は人前で指摘されることを恥ずかしいと感じるから、何も言わない。一方、ろう者は異常に気づかずそれを他者の目にさらすことを恥ずかしいと思うから、教え合う。ここにも聴者とろう者の違いが存在するようだ。


(日本語訳:chu)

■このメルマガは、2008年8月4日にまぐまぐ!によって配信されたものです。

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2008/08/11

No.104 ■静寂?

 先日、読売新聞に明晴学園のことが大きく取り上げられた。ところが見出しには「静寂の中に手話」とある。おかしい。明晴学園の子どもたちは決して「静寂」ではない。手話が飛び交いかしましいのだが、聴者の記者は音声が聞こえないから「静寂」と評したのだろう。これまでも似たような例は多々あった。

 マーリー・マトリンというろうの女優が主演したアメリカ映画は、『愛は静けさの中に』というタイトルがつけられていた。映画の中では手話が飛び交っていたが、聴者の観衆は音声がないので静かだと思ったのかもしれない。聴者は押し並べて、音声言語を発しないろう者は静かだと思っているようだ。

 また、フランス映画にも同様のものがある。ストーリーはとてもすばらしいもので、原題もフランス語で『ろう者の国』となっており、なかなかいけるタイトルだったのに、『音のない世界で』という邦題にされてしまった。配給会社の勝手な思惑で改題されたものと思うが、「音のない世界」のどこがすてきなのだろう?映画では手話が飛び交い決して「静寂」ではなかったのに。

 日本でも、ビートたけし監督作品で、ろう者のカップルを題材にした映画があった。こちらは、聴者の俳優がろう者役を演じており、ろう男性は無口なサーファーというありえない設定である。相手のろう女性もひっそりと彼のトレーニングを見守るだけで、デートの最中ですら会話せず、お互い見つめあうか、並んで海を眺めるばかりだった。これが、聴者の持つ静かなろう者のイメージなのだろうか。

 ろう者にすれば、聴者がずらっと着席する大学の教室はとても静かに思えるが、実は私語や雑談で大層うるさいらしい。また、夏場の空調の効いた講演会場も静寂だと思いきや、外のセミの声がやかましいという。一方、聴者が静かだと評する手話は、あちこちで動かされる手がうるさくてたまらない。

 うるさいか静かかは、ろう者と聴者では見方が異なる。にもかかわらず、聴者がろう者の世界を紹介するときには、聴者の観点で書くことが多く、ろう者のひんしゅくを買っている。この溝を埋めるにはどうしたらよいのだろうか。

(日本語訳:chu)

■このメルマガは、2008年7月28日にまぐまぐ!によって配信されたものです。

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2008/08/04

No.103 ■日本手話には口型がない?

 本来、手話とはろう者が自然に習得する「日本手話」一つだけだ。しかし実際には、日本語を話しながら手を動かすものが存在する。一見するとどちらも手を動かしてはいるが、一方は言語構造をもつ「日本手話」で、もう一方は日本語を話しながら、日本語の文法に基づいて手を動かすだけの「日本語対応手話」であり、両者はまったく異なるものだ。

 ところが、日本で使われている手話はどちらも等しく「手話」であるという主張がある。さらに驚くことに、日本手話とは口を動かさないものだから、今の人たちが使う口の動きを伴う手話は日本手話ではないとまで言っている。

 手話ニュースでは、口型なしの手話をすることはできないから、やはり日本手話には限界があるとも言っている。つまり、「伝統的手話」と呼ばれていたような口を動かさず、身振りっぽい手話が「日本手話」であって、私たちが通常使っている手話は「日本手話」ではないと言いたいらしい。勘違いも甚だしい。

 日本手話にも口型はある。その口型には二通りあり、一つは「マウスジェスチャー」、もう一つは「マウジング」という。マウジングは日本語の影響を受けて、「東京(とうきょう)」「木村(きむら)」など手話と同時に日本語の口型がつくものだ。日本語の影響を受けてのことだが、使用範囲は名詞に限られている。それでも日本語の名詞と手話のマウジングの意味
範囲は完全に一致するわけではない。もう一方のマウスジェスチャーとは日本語の口型とは異なり、手話の文法に基づいて、副詞的意味や時間(アスペクト)の関係を表すものであり、副詞・形容詞・動詞と共起する。このように日本手話では言語構造として、名詞で使われるマウジングと副詞・形容詞・動詞で使われるマウスジェスチャーが存在するのだ。

 確かに昔は、まったく口を動かさずに手話をする人もいただろう。今は亡き大家善一郎氏の手話を見ると確かにあまり口は動いていない。しかし、動きが少ないだけで、今の手話の口型と通じるところはある。

 また、言語は変化するものだ。日本語にしても昔の日本語と現在の日本語は違う。それでもどちらも日本語だ。昔の人たちの口型の少ない手話も日本手話ならば、現在の人たちが使っているマウジングやマウスジェスチャーがつく手話も日本手話なのである。にもかかわらず、昔の手話と比較して、口が動いているから日本手話と言えないという意見は勉強不足としか言いようがない。

(日本語訳:chu)

■このメルマガは、2008年7月21日にまぐまぐ!によって配信されたものです。

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2008/07/28

No.102 ■性別に関する手話の過剰使用について

 手話には性別に関係した言葉がある。小指を立てて<女性>、親指で<男性>を表し、それを基に<夫婦><結婚/離婚><息子/娘>のように性別を同時に表せる。ところが日本では<男>と<女>をくっつけて表す<結婚>は、アメリカでは両方の手のひらをくっつけて、日本手話の<友達・仲間>のような手話で「結婚」となる。

 <男><女>など性別に関する手話を覚えると、性別に過剰にこだわり、ろう者の手話に文句をつけ始める手話学習者がいる。例えば、<医者>という手話は<医+男>と表現するが、それに対して聴者が、女性の場合は<医+女>とすべきだと意見を言い出す。まあ、<医+女>でもいいけれども、<医+男>でもかまわないのではないだろうか。また、<会長>も女性だったら、<会+男>ではなく<会+女>にすべきだと意見する。現在、千葉県の知事は女性なので、「千葉県知事」と言うときには、<女>で表出しなければならないということらしい。もし、アメリカ大統領選でヒラリー・クリントン氏が当選したあかつきには、「アメリカ大統領」も<女>で表出するということだ。

 しかし、肩書きなどを表す手話の<男>は、"男性"という狭い意味ではなく"人間"を表している。<通う>の手話も同様だ。性別にこだわりすぎて、女性の場合はいつも<女>を使うべきと考えるのは過剰反応だ。

 少し意味は違うかもしれないが、<通訳>という手話もそうだ。本来は親指で<通訳>と表するが、前述の理屈からすると、女性が通訳するときは<女>の意の小指でしなければならないのかと思ったところ、性別の意を含まない人差し指で表出するのだという。たしかに人差し指で<通訳>としている人をよく見かける。ひょっとすると、あれも性別に過剰反応をしている人からの意見で変えさせられたのだろうか。<通訳>の手話の親指は性別を表しているわけではない。たまたま<男>の手話と同じ手型だっただけなのだ。

 性別を想起させないものに統一するために、これまで親指で表出してきた手話をすべて、人差し指で表出することにしたらどういうことになるだろう。<通う>も<社長>も人差し指だ。なんとも落ち着かない。親指を使った手話があるのは、それが音韻的に落ち着くからなのだ。「女性の部長」などと言いたいときは、<女性>の<部長>とすればいいことだ。

 あまりにも、<男性><女性>の区別を意識して表出するのは、逆に性の差別につながるということを考えていただきたいものだ。

(日本語訳:chu)

■このメルマガは、2008年7月20日にまぐまぐ!によって配信されたものです。

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2008/07/23

No.101 ■聴者受けしやすそうな手話

 <まだ>という手話がある。手話講習会や手話サークルで、喜んで使われている。<私、結婚、まだ>というときに、「当分ない」か「今はまだだけど間もなく」かという時間の長短を、右手と左手の間隔で調整し、的確に表現したと盛り上がっている。楽しく手話を使っているのだから、まあいいかとも思うが、やはり捨て置けない。

 ろう者は、<まだ>の程度をきちんと手話で表現しているではないか。それでも、右手と左手の間隔で時間の長短や程度を表現できるのは、手話の特性のように思えて聴者に受けるのだろう。

 似たような例がある。ある通訳者が先輩通訳者の手話をみて参考になったと回想していた。それは<いろいろ>という手話。<いろいろ>も程度がある言葉で、先輩通訳者は「考え方は実にさまざまあり…」というところの<いろいろ>を両手を使い、上下左右広い空間と大きな動きで表現したらしい。その表現に感心したというのだ。

 たしかに、そのような表現もありうるかもしれないが、通常は使われない。顔の表情はそのままで手の動きだけ大きく動かせばいいというものではない。ろう者が使う日本手話では、程度は手の動かし方だけでなく、顔の動き(非手指動作)で表現する。「非常にたくさんの…」や「まぁまぁの…」は口の形(マウスジェスチャー)による副詞的表現を使う。手話に非手指動作が伴うことで実に幅広い程度を表わすことができる。手の動きの大小で程度を表現するのは、演劇などで使われる手法だろう。

 さらに、同様の例で<全部>という手話もある。両手で描いた円の下部で手が接しているかどうかで「完全」か「だいたい」かを区別しようとするものだ。ところがろう者の<全部>は「完全」のときも「だいたい」のときも手は接している。「完全」と「だいたい」の区別は前述のとおり非手指動作によるのだ。

 聴者は手にばかり注目することが多いが、ろう者は手話を見るのに手に注目することはない。手話よりも相手の顔を中心に見る。顔の部分が文法的に重要な情報を担っているからだ。手の動かし方を変えて意味の違いを表現できたと喜んではいられないのだ。聴者は自らの学習方法を、ろう者は手話の教え方をいま一度見直さなければならないのではないだろうか。

(日本語訳:chu)

■このメルマガは、2008年7月11日にまぐまぐ!によって配信されたものです。

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