カテゴリー「ろう者の言語・文化・教育を考える(No.084~)」の9件の記事

2008/05/12

No.092 ■とんでも新しい手話

 

時折、けったいな手話にお目にかかることがある。<家・家>として「いえいえ」。<北・北>で「来た来た」。<注射・場>で「駐車場」。同様の使い方で、<ト+掻く><セ+掻く>で「とにかく」「せっかく」、または<ヤ>を倍にして「やばい」などのように、音声言語をもじった手話を創りだしては喜んでいる輩がいる。それを見た手話学習者が、これまた喜んで多用する。それを見たろう者は、叱りつけるわけにもいかず苦々しく思っているのだが、手話学習者はその思いに気づくこともなく、けったいな手話を使い続けるのだ。聴者が楽しいのならと黙認してくれる優しいろう者もいるかもしれないが、大方はそんなことで喜んでいるような聴者とはお近づきになりたくないと思っている。そして、大概の聴者は、そんなろう者の思いに一向に気がついていないのだ。

 以前「聴力障害者の皆さんへ」といっていたNHKの「ろうを生きる、難聴を生きる」という番組がある。そこで、あるベテランの手話通訳者が、魚や花の名前の手話を創ってはどうかと提案した。一例として披露されたのは、<サ+魚>で「サンマ」、<タ+魚>で「タイ」、<カ+魚>で「カツオ」、<イ+魚>の「イワシ」。もともと「タイ」や「サンマ」はそれぞれ手話があるし、「カツオ」は<("カツオ"の口型(※)付き)魚>やCL+<魚>など、ろう者なりの表現がある。東京など都市部に暮らす人たちは、厳密に魚の種類を表す必要がないので、代表的な魚以外のは口型付<魚>で事足りる。一方、奄美大島などで漁業をなりわいとしているろう者は、イカにしても種類ごとにたくさんの手話を持っている。つまり、生活上こまごまと分類しなければならないものは、それぞれにあたる手話ができ、そこまでの必要性がない人たちの間には、該当する手話が定着しないというだけのことだ。

 音声言語は書き残すことができ、表記したものは普及しやすい。しかし、手話は対面で使用される言葉なので、奄美大島だけで使われている手話が東京に伝播することはない。見る言葉であることから、広まり方に制限がある言葉だとも言える。それでも、<サ+魚>や<イ+魚>という手話を聴者が勝手に作り出すことは納得がいかない。

 花の種類の手話にしてもしかりだ。<チ+花>で「チューリップ」、<サ+花>で「サクラ」。最近は、日本手話やろう文化が理解されつつあるので、前述のようなヘンな発案をする聴者は少なくなってきたかと思っていたら、そうは問屋が卸さなかった。高等教育機関で聴覚障害学生と共に活動している人たちである。それなりに手話を使い、熱心に活動しているのは良いが、手話は語彙数が少なく、キャベツもレタスも同じ表現で区別がつかないからと、<キ+野菜>で「キャベツ」、<レ+野菜>の「レタス」などを考案した。ろう者は別に困っていない。<キャベツ>と<レタス>の使い分けはできている。

 さらに、くだんの学生たちは麺類の区別手話まで創ってくれた。<ウ+麺>「うどん」、<ラ+麺>「ラーメン」、<ソ+麺>「そば」である。「アホ」のひと言をどこに飲み込めばよいのだろう。ろう者たちは、ちゃんと「うどん」も「ラーメン」も「そば」も使い分けているではないか。ここで口型がものを言うが、この口型は別に日本語を話しているわけではない。ろう者も日本語を使う人たちの中で暮らしているので、その人たちが話している口の形を見て手話に取り入れているだけだ。わざわざ「そば」の<ソ>や「うどん」の<ウ>を思い起こして指文字にする方が面倒くさい。仮に口型をつかうのが不得手なろう者でも、「うどん」だったら<日本・麺>とか、「ラーメン」だったら<中華・麺>で足りる。このように、ろう者にはろう者なりの言葉の創り方がある。にもかかわらず、日本語を基にした発想でけったいな手話を創り、ろう者にもその使用を強いるのは、ろう者を見下しているに他ならない。と、思われていることをお忘れなく。

※日本語から借用した口型を「マウジング」という。

(日本語訳:chu)


■このメルマガは、2008年5月1日にまぐまぐ!によって配信されたものです。

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2008/05/05

No.091 ■新しい手話について

 私は、手話指導や手話通訳者養成のかたわら、NHK手話ニュースのキャスターをしている。手話ニュースのキャスターになって、もう10年近くになる。手話ニュースではあらかじめ用意された原稿を手話に翻訳している。自らが考えたものを話すわけではない。時折、書かれている言葉をどのように手話にするか難儀することもある。一応、キャスター同士で申し合わせている用語もあるが、必ずしもそれを使わなければならないというわけではない。日本語の語彙と手話の語彙の意味が完全一致するわけではないからだ。ニュース原稿に書かれていることの意味を的確に伝えられる手話語彙を選択してお伝えしている。

 全日本ろうあ連盟では、新しい手話や標準手話の普及に取り組んでいる。新しく創られた手話でも、ろう者に受け入れられるものもある。例えば、「四季」という手話だ。昔は、春・夏・秋・冬の手話はあったものの、その総称である「四季」という手話はなかったので、新たにこの手話が創られたときには、瞬く間にろう者の間に広まった。また「エイズ」という手話も同様である。

 一方、せっかく創られた新しい手話でも、定着しなかったものもある。「真実」と「心」を組み合わせたと思われる「真心」という手話などだ。どうも、全日本ろうあ連盟が新しい手話を創るときには、複数の手話単語で表していたものの動きを簡略化して、少ない動きで表せるものにしようとの意図があるらしい。

 新しい言葉が定着するかどうかは日本語でも同様だ。国語審議会などが、外来語等のカタカナ語をわざわざ日本語に訳したのに、結局受け入れられず、カタカナ語のまま使われていることもある。新しい言葉を創るのはかまわないが、それが定着するかどうかはその言葉によるのだ。

 私は、手話ニュースにおいても、新しい手話を率先して取り入れようとしてはいない。なぜなら、新しい手話を使っても、それが視聴者に理解されなければ意味がないからだ。手話ニュースは、全日本ろうあ連盟の会員であるなしに関わらず、全国津々浦々のろう者に見ていただいている公共性の高いものである。そのため、まだ定着もしていない新しい手話を積極的に導入するわけにはいかない。NHK手話ニュースはあくまでもニュースの内容をきちんと伝えることが優先なのだ。CS放送の「目で聴くテレビ」では積極的に新しい手話を発信している。CS障害者放送統一機構は、ろうあ連盟の関係機関であるので、そちらで積極的にやっていただきたい。

 ところが、新しい手話が紹介されるたびに唖然とすることも多い。手話言語学の専門家ならおわかりだと思うが、手話の動きにはあるルールがある。両手を同時に使う手話の場合、左右同じ手の形で、同じ動きをするのが基本だ。左右の手の形が異なっている場合は、非利き手が固定され、利き手だけが動く。異なる形の手を左右同時に動かすのは難しい。ところが新しい手話は、このルールを無視して創られているように思える。新しい手話を考える際には、是非、文法や音韻を熟知している人に関わっていただきたいものだ。

 日本語の分野では、明治維新のころ西洋から新しい語彙がたくさん入ってきた。その中には「社会」のように、それまでの日本には概念の存在しない語彙もあった。「社会」は意外に新しい語彙で、明治以前の日本では「世の中」の「世(世間)」という語が使われていた。日本語の「世(世間)」と西洋の「社会」のように概念の微妙に異なる言葉を、慶應義塾大学の創始者である福沢諭吉は大変な苦労をして翻訳した。そのときに新しく創られ、定着した日本語も多い。新しい手話も同様に、使い手に受け入れられれば定着していくと思う。ただ、新しい手話の創造や普及のしかたには、もう少し検討が必要ではないかと思う。


(日本語訳:chu)

■このメルマガは、2008年4月14日にまぐまぐ!によって配信されたものです。

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2008/04/21

No.090 ■手話こそ世界語に?

 最近、ろう文化や手話への理解が広まりつつあり、マスコミにもしばしば取り上げられるようになってきた。反面、まだまだ無知な人たちも存在する。ろう者と接触することのない人たちの中には、国によって手話が違っていることに驚く人もいる。手話は聴者が作ったものだとか、世界共通だろうというような勝手な誤解もある。しかし、旧約聖書のバベルの塔の話のように、世の中に多様な言葉が存在するのは意味あることなのだ。

 手話もしかり。ろう者のコミュニティにはそのコミュニティごとの手話が存在する。人がなかなか足を踏み入れることのできないようなアフリカの奥地に、もしろう者のコミュニティがあれば、必ずその地で使われる手話があるのだと思う。他所から人が入らないため、その存在が知られていないにすぎない。幸いにも日本では手話を目にする機会が多いので、その存在が知られるようになっただけだ。

 16~17世紀頃の大航海時代には、フランス語やスペイン語が幅を利かせており、植民地の人たちも宗主国の言葉を覚えたり、実際、話せたほうが便利だと思っていたかもしれない。それが現代では英語になり、世界中で英語が共通語のように扱われている。もちろんその状況に異議を唱える人も多いし、英語ができることがすなわちエリートだと思うなどは、勘違いも甚だしい。それでも英語ができると便利であることは確かだ。そこで、英語に代わり「エスペラント語」を共通語にしようという動きもある。

 手話も世界共通ではない。そのため世界各国のろう者が集まるときのために共通手話としてジェスチューノが作られ、ひと頃はその辞典まで出された。最近はあまり意味がないと活用されなくなった。最近の国際手話には大きく分けて欧米系とアジア系の二つのタイプがある。アジアのろう者間ではアジアなりのものが作られるし、欧米のろう者たちはやはりそれなりのものを使う。そのためアジアのろう者にとって欧米タイプは少しわかりにくい。人々が集まると各国の手話単語を取り入れピジン手話が生まれる。その場ではなんとか話が通じても、やはり自国の手話で話すときより情報量は格段に少ない。

ところが、聴者はろう者は他国の人とでも手話が通じると思っている。たしかに音声言語に比べれば、手話は通じやすいといえる。だからといって手話が世界共通になるわけではない。ピジンはあくまでもピジンであり、内容を理解しようとする努力が必要になるし、努力しても少ない情報に甘んじなければならない。国際手話通訳も同様だし、他国のろう者と話す経験のない人には、それすら理解できないだろう。自国の手話の通訳を見るようなわけにはいかない。手話が世界共通になることなどありえないのだ。

 それなのに、「手話を世界語に」などととんちんかんなことを唱える人がいる。手話についての門外漢が言うならまだしも、あろうことか、全国手話通訳問題研究会が季刊で発行している『手話通訳問題研究』102号の『随想』のページに目を疑うようなことが載っていた。作家の早坂暁氏が、外国に行くと話が通じなくて難儀するので、世界共通の手話を覚えれば支障なく会話ができて便利だと書いている。さらに、手話は文法がなく覚えやすいとまで書かれている。時代錯誤も甚だしい。それに、早坂氏は数年前の全通研集会で記念講演までした有名な作家で、言葉の専門家である。また、一般の新聞等で十分な理解もなく掲載されたというのではない。仮にも手話についての理解を広めようとしている団体の機関誌ではないか。手話は文法がないとか、覚えやすいなどと明らかに間違った見解を、そのまま掲載し発行するなど許されることだろうか。一般紙も社会への影響力が大きいものの、おかしな記事には是正を求める意見を言えるが、手話やろう者を熟知していると思われる団体が発行したものについては意見の言いようがないではないか。

 ろうあ運動に取り組んでいる人たちには、今の社会の変化に敏感になっていただきたいものだ。

(日本語訳:chu)

■このメルマガは、2008年4月8日にまぐまぐ!によって配信されたものです。

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2008/04/14

No.089 ■ろう文とコーダ

 「ろう文」とは、ろう者が書いた文章のことである。これまで、ろう者は厳しい口話教育で発音の指導にばかり重きを置かれ、文章を書く力を十分に伸ばしてもらえなかった。そのため、文法的に間違った文を書く人が多い。口話教育の弊害とも言える。その一方でろう者が書いたものだから・・・と納得できる部分もある。私の両親などは、そもそも文を書くという段階で四苦八苦している。

 ここで改めて「ろう文」とはどのようなものかを考えてみる。昔と違って最近は、インターネットやメールの普及で、聴者が「ろう文」を目にする機会も増えてきている。聴者が「ろう文」をどうとらえるかを考えておかなければならない。

 先日、年下のろう者にある仕事を頼んだ。一応丁寧な文でメールを送った。その後、彼から返信が届いた。日程が合わないのでどうしたらよいかというものだったが、文面は「どうしますか?」と書かれていた。聴者が書いたものならば失格だが、これはろう者が書いたものである。きっと、「どういたしましょうか?」と言いたくて、手話をそのまま日本語に訳してみたのだと思う。同じろう者同士だから斟酌もするが、これが、ろう者となじみのない聴者の目に触れたときはどうなるだろう。「日本語も満足に使えないのか、非常識な」と片付けられるのが落ちだ。

 しかし、それ以上に微妙なのがコーダの場合だ。コーダは一般的に聴者の仲間ととらえられているが、それゆえ、コーダの書く文に違和感を覚える聴者もいるらしい。例えば、あるコーダが書いた文。大変丁寧に、「誠に申し訳ございませんが・・・」で始まっている。内容は、「送り先を誤ってメールを送ってしまったので、それを削除してほしい」と謝罪しているものである。ところが文面には「削除しておいてください」と書かれていた。このメールが送られたのは、年齢もさまざまな関係者が目にする送り先だ。年下の者から「・・・しておいてください」とは何ごとだ!と先輩方の怒りに触れた。その後、書き手がコーダだったことが判明し「なあんだ・・・」ということになったのだが、果たして「なあんだ」で済ませてよいことだろうか。

 ろう者は聴者と違っているのは明らかで、日本語を母語としない移民の子と同様に、マイノリティとしてバイリンガル教育など特別な教育措置が必要だと意識されている。そのため明晴学園の開校となったわけであるが、コーダは日本語を母語としないろう者を両親に持っているにも関わらず、自身が聞こえるというだけで放置されている。コーダは一見、手話も日本語も扱えるバイリンガルであるように見えるが、実は手話は堪能でも日本語はいま一つとか、反対に日本語はできても手話は拙いなど、言語環境はさまざまである。

 コーダは移民の子と同じだ。移民の子どもは親の母語が居住国で使われている言語ではない。それでも子どもは言語を獲得するのが早いので、周りで使われている言葉(第二言語)を覚え自由に話せるようになる。ところが、高学年になるにしたがって勉強についていけなくなるという問題が起こることがある。生活言語は扱えても学習言語が育っていないためだ。そこで、カナダなど移民の多い国では、子どもたちが第一言語も第二言語も不十分なダブルリミテッド・バイリンガルに陥らないよう、教育支援が行われている。実は、コーダにも同じ支援が必要なのだ。言語環境が不十分なためにダブルリミテッド・バイリンガルのコーダが結構いるのではないかと思われる。

 バイリンガル教育という観点でいえば、ろう児だけに目を向けるのでなく、移民の子と同じ状況にあるコーダにもしっかりした言語教育のプログラムが整備されるべきなのだ。今のままでは、コーダの言語力はいつまでも伸ばせない。コーダの会にももう少し動いてもらいたいが、私自身もコーダのために力になりたいと思う。

(日本語訳:Chu)


■このメルマガは、2008年3月31日にまぐまぐ!によって配信されたものです。

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2008/04/08

No.088 ■日本語対応手話はL2としてOKか?

 私は、現在バイリンガルろう教育の推進に関わっている。ご存知のとおり、この4月から日本で初めてバイリンガルろう教育を実践する「明晴学園」が開校する。手話を第一言語(L1)に、日本語の読み書きを第二言語(L2)とする。口話は希望があればオプションとして取り入れ、第一言語と第二言語が入れ替わることはない。

 いかなるろう児も、特別な努力なしに自然に習得できる言語は手話なので、まず第一言語として日本手話の力をつけさせる。これは専門家の間でも共通認識となっている。

 ところが、先日ろう者関連の機関紙である記事を目にした。書いたのは、中途失聴の人で教育の専門家ではない。それでもかなり影響力を持っている人物だ。文面には「ろう児には手話が大切である」と書かれている。たしかにそのとおりだ。そこでは「手話教育」という言葉が使われており、「手話教育においては一次的言葉と二次的言葉が大切である」という。一次的ことば、二次的ことばというのは、有名な心理学者である岡本夏木が説いたもので、一次的ことばの力が不十分だと、思考や論理的な話をするなどの二次的ことばも弱くなるという。

 くだんの記事では、「ろう児の一次的ことばは手話であり、二次的ことばは日本語対応手話である」と書かれていた。二次的ことばが日本語対応手話であるとするならば、明晴学園が実践しようとしているバイリンガルろう教育の理念と整合しなくなってしまう。

 バイリンガル教育は、第一言語(L1)にも第二言語(L2)にもそれぞれ生活言語とそれを土台にした学習言語があると考えている。明晴学園に限らず、北欧をはじめとして諸外国で実践されているバイリンガルろう教育では、その考えに基づいて、第一言(L1)の手話にも生活言語と学習言語があり、同様に第二言語にも、筆談や手紙などの日常的な読み書きから、論文のようなものを読み書く学習言語のそれぞれが存在するととらえている。

 第一言語である手話をみると、乳幼児のころから周囲の大人とのやり取りの中で生活言語としての手話を習得し、次第に人の前で自分の意見を述べたり、討論の司会をするとか、自分が調べたものを発表するなどの学習言語としての手話へと高まっていく。生活言語は日頃のおしゃべりなどで使われるものだが、土台となるこの力がないと学習言語へと高めることができない。

 つまり、バイリンガル教育では、基本や土台なしに学習言語だけを教えようとすることは意味がないと考えている。日常の生活の中で、さまざまな経験をし言葉のやり取りをする力を蓄えて、それを基に、レポート発表をしたり、意見を述べるという学習言語が育つ。バイリンガルろう教育においては、第二言語である書記日本語も、生活言語的な漫画や手紙などの私的な読み書きから、感想文やレポート、論文など学習言語的な読み書きへと成長するのだ。

 ところが、前述の記事によれば、一次的ことば(生活言語)は手話で、二次的ことば(学習言語)は日本語対応手話で。つまり、日常のおしゃべりは手話でよいが、パブリック・スピーチは日本語対応手話にしろということではないか。日本語対応手話を読み取るには疲労が伴い、話もくどくどと長くなる。しかも、明晴学園に通おうとしているろう児たちは、すでに学習言語としての手話の力が十分に伸びている。にもかかわらず、なぜわざわざ日本語対応手話で学習活動をしなければなないのだろうか。日本語対応手話を使用している聴者に迎合するためか。学習言語としての手話を身につけた者たちは、人前で話をしたり、
行政交渉などの場面でも、日本手話できちんと話をすればよい。そして、手話通訳者がしかるべき日本語に通訳をすればよいことなのだ。現在の日本語対応手話の蔓延にろう者側が譲歩する必要などない。

 さらに、ろう児にも日本語対応手話で教育をすべきと考えている教育関係者もいる。そもそも日本語対応手話の文法は日本語のものだ。これから教えられる未知のものである日本語をベースに手話を理解するなどありえない。つまり、日本語対応手話は何の役にも立たないのだ。

 バイリンガルろう教育において、日本語対応手話は第二言語(L2)になりえない。実際には中途失聴の人と話す際に、相手に合わせて日本語対応手話を使うことはあるかもしれない。それでもろう者というアイデンティティに日本語対応手話は持ち込まなくていい。

(日本語訳:chu)

■このメルマガは、2008年3月24日にまぐまぐ!によって配信されたものです。

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2008/03/31

No.087 ■本物を見ないとわからないこともある

最近、ろう児が手話を使っているのを過剰に評価する風潮がある。トータルコミュニケーションに始まり、昨今のろう学校ではとにかく手話らしきものをしていれば褒められるが、決して喜べるものではない。やはり「本物」を見ていただきたい。

デンマーク在住のアスゲー氏(元・世界ろう者連盟理事)の話を聞いて感銘したことがある。2001年、それまで世界ろうスポーツ大会と称していたものが、IOC(国際オリンピック委員会)の正式許可を得て第1回デフリンピックとなり、イタリア・ローマで開催された。そのオープニングイベントにバイリンガル教育の先進国であるスウェーデンのマニラろう学校小学部の子どもたちが招かれた。

世界各国から集まったろう者が見守る中、まず入場してきたのは、地元イタリアのろう学校の子どもたち。各自の名前、年齢、通っているろう学校、将来の夢などを手話で披露し、口話教育に苦しんできたろう観客の感動を呼んだ。

続いてスウェーデン・マニラろう学校の小学部6年生の子どもたちが登場してきた。イタリアの子どもたちと同様に、手話で名前の紹介を始めたと思ったら、なんと、続けて世界の政治や貧困など社会問題について述べ始めたのだ。将来の夢などという子どもじみた話にとどまらず、大人顔負けの社会への意識を堂々と述べた。

イタリアでは、まだバイリンガル教育が確立していない。一方、スウェーデンでは、すでにしっかりとバリンガル教育が根付いており、生活言語としての手話はもちろん、学習言語として手話をも使いこなし、大人でも難しい話題について考え、自説を述べるほどの力がついているのだ。

イタリアの子どもたちのかわいらしい手話に喜んでいたろう観客は、本物のバイリンガル教育の成果を見せつけられ、言葉もなかったという。

たしかに、うちの両親でさえ、わが娘は小さい頃に手話をしなかったと嘆き、最近のろう学校の中に手話が増えてきた様子を垣間見ては感動している。私が教育を受けていた時代も口話絶対だったから、手話をしなかったのは当然だと思う。しかし、最近のろう児たちでも、手話を使うようになったとはいえ、思考や行動力を十分に育てられる手話とは言いがたい。このような手話を見ても喜べるのは、「本物」を見たことがないからだ。

龍の子学園ができ、バイリンガル教育で育ってきた子どもたちは、今や大人も顔負けの論客となり、さまざまな問題を考え意見を戦わせる。これこそが「本物」だ。

残念ながら、現在の日本のろう教育関係者は、本物の手話を身につけた子どもたちを見たことがない。現状で満足することなく、是非、本物のバイリンガルとはいかなるものかを見ていただきたいものだ。

(日本語訳:chu)

■このメルマガは、2008年3月17日にまぐまぐ!によって配信されたものです。

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2008/03/24

No.086 ■ あいさつって難しい?

 「あいさつ」はろう者である、聴者であるにかかわらず不可欠な社会常識である。ただ、「あいさつのしかた」はそれぞれの言語や文化にのっとったやり方があるかもしれない。ろう者は「来た」ことを周知し、同様に「帰る」ことを周知して去るというように、自分の存在を見て確認してもらうやり方をとる。しかし、とまどうのは、ろう者から聴者にあいさつをするときだ。

 例えば、NHK手話ニュースのスタッフルーム。そこにいるのはほとんどが聴者である。今でこそ手話のわかるスタッフが増えてきたが、以前は手話など知らないという人が大半だった。その部屋のドアを開けても、誰もこちらを見てくれない。ろう者だったら、ドアが動く気配に気づいた人が入り口のほうに視線を向け、それに誘われて次々と視線が集まってくる。ところが、聴者ばかりのその部屋はドアを開けても誰も反応してくれないので、やむなく近場の席の人から順に肩を叩きあいさつして回ることになる。いちいち全員のところを回るのは面倒だが、ろう文化を知ってもらうためでもあるのでやむをえない。ここで妥協するわけにはいかないのだ。

 一方、自宅のマンション。住人は手話のこともろう者のことも知らない人ばかりだ。ある日、エレベーターに乗ろうとしたら、エレベーターホールに先客がいた。ちらっとでも振り向いてくれれば会釈もできるのに、エレベーターの方を向いたままこちらを見ようともしない。聴者は視線も合わせず「おはようございます」とかなんとか声をかけておけばいいということか・・・。そんな聴者式あいさつはできないので、落ち着かないながらも無視する形になってしまった。こちらが先にエレベーターを待っているところに、聴者の住人がやってきたときは問題ない。先方もこちらを見ているので、ちゃんと会釈をすることができる。簡単そうに見える「あいさつ」、実は意外と難しい。

 しかし、ここ手話通訳学科は手話通訳をめざす者の学びの場である。ろう文化とは何か、あいさつの仕方はどうかなどは何度話していることだろう。それなのに、いまだにまともなやり取りができない者がいる。

 教官室にはろう者・聴者2名ずつの先生が机を並べている。扉を開けて入ってきた学生、自分の用事がある先生のことしか見ていない。ほかの先生のことなど無視したまま、お目当ての先生のところにまっしぐらだ。扉を開けて先生方が自分を見てくれたら、そこにあいさつをかえしてから、用事のある先生に向かっていくものではないだろうか。見ないということは「おまえなんか見るに値しない」と言っているのと同じだ。

 また、先生同士が話をしている場面。片方は座りもう一方はそばに立っている。そこにやってきた学生。どうやら立っている方の先生に用があったらしく、立っている先生の顔しか見ていない。すぐ下にも顔があるのに、そちらには目もくれようとしないのだ。部屋に入ってきたら、まずその場にいる人たちに会釈なり目礼なりのあいさつをして、それから自分の用件に入るという当たり前のことがなぜできないのだろう。

 ろう者とは目を合わせてのコミュニケーションが大切だと教えている。しかし、どこか間違ってとらえてはいないだろうか。目を合わせる、目で確認するのは自分の話し相手とだけではない。同席している人をないがしろにしているかのごときあなた方の態度でいたたまれない思いにさせられていることをわかってほしい。そして一日も早く改善を!

(日本語訳:chu)

■このメルマガは、2008年3月10日にまぐまぐ!によって配信されたものです。

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2008/03/17

No.085 ■ 電話通訳~本人確認~

 ろう者の通信・伝達手段には郵便、FAX、メールなどがあるが、電話はちょっと面倒くさい。もちろんろう者は自分で電話をかけることはできない。中途失聴者は自分で用件を話して、先方の話しだけを通訳してもらうこともあるかも知れないが、ろう者が電話を使うときにはやはり手話通訳を介することになる。

 しかし、面倒なのは銀行やクレジットカード会社、郵便局、保険会社などを相手に電話をするときだ。これらは電話で本人確認を取られる。例えば、クレジットカードを紛失して、連絡のためにカード会社に電話をするとまず聞かれるのが「ご本人様ですか」というもの。続いて、氏名、生年月日、住所、電話番号などを確認されるが、ここで通訳がまごついてしまうと、いささか厄介なことになる。

 上記のように金融商品を扱っている会社は、電話口の人が本人であるかどうかに神経質だ。たとえ通訳者のこちら側に本人がいたとしても、本人以外の者が電話口に出ることを認めない。私も以前経験したことがある。どこかのカード会社に電話をしたら、本人かどうかを問われた。当時はまだ若かったこともあり、深く考えず「通訳を介している」と言ってしまった。すると本人以外の人からの電話は受け付けないという。どんなに、ここに本人がいて、その発言を通訳しているのだと説明しても聞き入れてもらえなかった。なぜ「通訳者=本人」ということが認識できないのだろうか。以来、この問題には目をつぶり、カード会社に電話する際には、あえて通訳を介していることを明かさずに話しを進めることにしている。

 それでも厄介なのは保険会社だ。がん保険や医療保険等の生命保険では、告知義務というものがある。保険加入申込書に病歴や健康状態を記入する欄があり、もし病歴を隠して加入すると病気になったときに保険金が支払われない。そのため保険加入にあたっては、正直に告知しておかなければならない。

 われわれろう者は、ろうであることを病気だとはとらえていない。ところが保険加入申込書の告知欄には、これまで病気で入院したことがあるか、人間ドックなどの健康診断で異常が見つかったことはあるかなどの質問に続いて、目・耳・身体などに障害はあるかという質問項目がある。ろう者であることは告知しなければならないようなことかと思いながらも、後々厄介なことにならないようにと、聴覚障害○級の身体障害手帳を持っていると正直に答えて、加入申込書を送った。

 すると、後日、その保険会社から電話が入った。案の定本人かどうかを確認してきたが、こちらがろう者であることは承知のうえで電話をしてきたのだろうと思い、本人が通訳を介して電話を受けている旨を答えた。しかし、どんなにここに本人がいると説明しても、電話口で話しているのが誰なのかにこだわっている。埒が明かないので、通訳を介しての電話がだめならば、メールにしてほしいと申し入れた。そうしたら、なんと、電話で本人確認ができないので、保険に加入させられないという断りのメールが届いた。電話ができないという理由で断ってきたのは、損保ジャパンのDr.ジャパンという保険商品である。

 一方、やはり通信販売の保険商品を取り扱っている、がん保険でおなじみのアフラック(アメリカン・ファミリー生命保険会社)は、当方がろう者であることを届け出て、メールによるやり取りで、何の問題もなく保険に加入することができた。

 電話における本人確認とはいったいなんだろうか。カード所有者の個人情報を得て、本人になりすまして電話をすることなどいくらでもできる。それなのにろう者が通訳を介して電話をしているから本人確認がとれないという主張はナンセンスだ。何とか打開策はないものだろうか。

 ろうあ運動で、くだんの業界に、「電話通訳をしている通訳者は本人と同じである」と認識させていかなければならないのではないだろうか。

(日本語訳:chu)

■このメルマガは、2008年3月3日にまぐまぐ!によって配信されたものです。

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2008/03/11

No.084 ■ 「笑い」の持つ意味

私は「笑い」の専門家ではないが、自分の体験から感じていることを述べたい。

「日本人の笑い」という言葉があるのをご存知だろうか。諸外国から見るとどうも日本人の笑いは違和感があるらしい。日本人のうすら笑いは不可解なのだそうだ。たしかに欧米の人たちが意味もなく微笑む様子を目にすることはない。アメリカ人などはいつもしかめっ面だ。日本人のうすら笑いが解せないと思うのは、われわれろう者も同じだ。

 先日、手話通訳学科の卒業研究発表会で、聴者の笑いとろう者の笑いを比較分析したものがあった。聴者は自らの失敗をごまかすために笑う。たしかに、通訳実技の授業で、思うように手が動かないときなど、にやにやとごまかし笑いをする学生が多い。こちらにしてみれば、「満足にできもしないのに、笑ってる場合じゃないだろうが(怒)!」と言いたくなる。ちょっとこらえて「そんな、笑ってないで・・・。」との指摘にまた"にや~"。そこそこ通訳ができるようになっても、ちょこちょこと手を休めては"にや~"。どうやら、聞き漏らしたり、うまく通訳できないときに"にや~"が出るらしい。通訳者が通訳中に笑うと、話の内容が面白くて笑っているのかと誤解を招く。通訳者のごまかし笑いはろう者には通用しないからや止めるようにと何度繰り返してきただろうか。

 さて、前述の卒業研究では、デートで遅刻したときの比較を述べていた。まず、聴者カップルの場合。待ち合わせの時間に遅れてしまった方が息せき切りながらもへらへら笑いながらやってくるという。これをろう者相手にしたらどうだろう。怒りを助長させるだけだ。聴者の笑いには、遅れたことへの謝罪の意が含まれているらしいが、ろう者は笑いを「反省」や「謝罪」と同義にとらえることはない。ろう者カップルでは、遅刻してしまったときには、まず謝る。そして、許してもらえたら安堵の微笑みを見せるのだ。

 「笑い」は世界共通ではない。言語と文化に密接な関係があり、それぞれ異なっているように、「笑い」の持つ意味も国や文化圏ごとに異なっている。ろう者の表情を聴者が怖いと評することがあるが、ろう者は別に怒っているわけではない。みだりにうすら笑いをしないだけだ。「笑い」だけでなくいろいろな顔の表情がもつ意味の比較分析をしても面白いのではないだろうか。

(日本語訳:chu)

■このメルマガは、2008年2月25日にまぐまぐ!によって配信されたものです。

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